ご挨拶が遅くなりましたが・・・明けましておめでとうございます!
本年も地味に地道に活動してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
さて、年明け最初の記事は、昨年末12月28日開催の第91回井上ひさしのレポートです。次回開催についても近日中にお知らせできればと思います。どうぞお楽しみに!(大野)
レポートが大変遅くなってしまいました。2022年最後の『本読み会』は、「日本戯曲で触れる!キリスト教シリーズ」の集大成として、井上ひさし『珍訳聖書』に挑みました。星降る夜、年の最後は崇高な気持ちになって締めくくろう…と思いきや、なかなか一筋縄ではいきません。
私が中学生のとき、国語の教科書には『握手』という短編が載っていました。井上ひさしが宮城県のカトリック孤児院「天使園」で暮らしていたころの追想録で、カナダのルロイ修道士が死を前に「私」(大人になった井上ひさし)と最後の会話をする話です。献身的なルロイ修道士の思いに寄り添うような文章は、キリスト教作家としての井上ひさしを初めて味わった体験として印象に残っています。今でも教科書に載っているのでしょうか?
天使園で暮らした井上少年はその後上京し、大学在学中にストリップ劇場フランス座で軽喜劇の台本を手掛け、やがて喜劇の殿堂テアトル・エコーに作品を書き下ろすようになります。『珍訳聖書』は、1973年に紀伊国屋ホールで初演された、井上ひさし初期の戯曲です。
読み通して舌を巻くのは、その劇構造の複雑さです。浅草のストリッパー犬(序盤、多くの登場人物は犬です)が狂犬病にかかったことを皮切りに、国家権力が感染症を利用して反体制を駆逐しようと企むスリリングで、そしてコミカルなサスペンス劇がしばらく続くのですが、やがてかつての軍人たちが戦中の暗部を演じていることが判明。ところが、それがまたしても劇中劇構造で、終わったかと思うとさらに入れ子構造になっており、何度も何度もどんでん返しがあったのち、ようやくどこか浅草の路地にて終幕を迎えます。劇中劇中劇中劇…を象徴するように、舞台には何重もの幕が仕掛けられています。
「どのへんが“聖書”なのか?」と、『井上ひさし全芝居 その一』を紐解いてみると
こうして見ると、井上戯曲に多い、困難に見舞われる主人公の一代記ドラマは、カトリックの信仰をもつ作者による、キリスト受難劇の道化的変奏曲だと見ることができる。
しかも、ここに顕現したキリストは、じつに作者好みの、大衆演劇出身の浅草のキリストである。「エロ」と「笑い」と「ぶちかまし」を武器とするしがない三枚目風のキリストである。
(『井上ひさし全芝居 その一』扇田昭彦による解説より)
なるほど。「変奏曲」というところが、日本戯曲の中に現れたキリストの姿(のひとつ)なのかもしれません。ちょっと突飛な比較ですが、ブレヒトの『セチュアンの善人』のように善と悪に分裂してしまうのではなく、清濁合わせ飲んだキャラクターとして混乱を生きています。同じく初期の井上戯曲『藪原検校』や『道元の冒険』なども、悪の中の善、善の中の悪を見出しながら読むことができるでしょうか。
参加者の中には浅草に足繁く通われている方もいて、新旧の浅草模様にも花を咲かせながら読み進めることができました。かつてのフランス座はいま「東洋館」(正式名称は浅草フランス座演芸場東洋館)となり、ナイツの活躍もあって連日大入り満員だとか。外国人観光客も戻ってきて、再び浅草が底力を見せつける時代なのかもしれません。
会の後には、忘年会ならぬ『忘本会』へ。これもコロナで中止していたため、実に3年ぶりの開催となりました。いつも本の話ばかりしているから、年末くらいは本のことを忘れて飲もう、とするけど結局ずっと本の話をしているのは変わりません。2023年も『本読み会』をどうぞよろしくお願いします。(松山)