さて、リーディング・ライブのレポート第三弾です。今回のレポートは、超強力助っ人として企画段階からご協力いただいた、清末浩平さんに執筆していただきました!清末さん、どうもありがとうございました。
レポート第一弾(大野)
レポート第二弾(松山)
レポート第四弾(西村)
それでは早速、どうぞ!
今回の公演に、「戯曲研究」担当として参加しました、清末(きよすえ)といいます。
「戯曲研究」というクレジットは僕が勝手に考えたものですが、だいたい次のような仕事をしました。
(1)演目選びに加わって意見を言う。
(2)演目となった戯曲をできるだけよく読んで解釈する。
(3)『沢氏の二人娘』のダイジェスト版台本を作る。
(4)上演作品や岸田國士についての資料を調べる。
(5)稽古を見てキャストのみなさんと話し合う。
公演を終えて考えるに、正直なところ(4)は十分にやれておらず反省しているのですが、それは今後の課題として、「戯曲研究」の立場から今回の公演を簡単にふり返ってみたいと思います。
今回の公演では、僕は演目選びから参加させていただきました。
短編をだいたい3本くらいやろうという話になり、「一番好きな作品か、一番有名な作品から選ぼう」と基準を定めました。
普段からの『本読み会』のモットーとも合致する基準だそうです。
『沢氏の二人娘』は、3作品の中の1本にするには長すぎましたが、大野さんと松山さんが好きな作品だということでしたので、僕は軽々しく「じゃあダイジェスト版にして、何とかやりましょう」と言ったのでした。
あとで実際にダイジェスト版台本を作るときになって、3分の1から4分の1に切り詰める作業の難しさに愕然とし、自分のその軽率さを猛省することになったのですが、その話はせずにおきます。
ともかく、当初から強いコンセプトがあったわけではなく、単純に「一番好きな作品か、一番有名な作品から」選んだのが、今回の演目『命を弄ぶ男ふたり』『沢氏の二人娘』『紙風船』だったわけですが、今思うにこの3作品は、組み合わせとしてもなかなかよかったのではないでしょうか。
岸田國士は、人間の「見栄」を描くのが、非常にうまい劇作家だと思います。
相手に対して「自分のほうが上だ」「ナメるな」ということを示そうとしてしまう人間の心。
現代的な言葉では(?)、一種の「マウンティング」とでもいえるでしょうか。
そんな人間の「見栄」を、今回の3作品は、それぞれ違った角度から映し出し(たり映し出さなかったりし)ています。
今回の最初の演目『命を弄ぶ男ふたり』は、自殺という行為とその動機をめぐって、ふたりの男がマウンティングしようとし合う話です(途中から変わってきますが)。
ふたつ目の演目『沢氏の二人娘』では、ふたりの女(姉妹)がマウンティングしようとし合います。
そして最後の演目『紙風船』では、夫婦が互いにマウンティングを試みる……かと思いきや、男と女では欲望がズレていて、マウンティング合戦にならないのです。
ところで、「見栄」とは、心の中に隠された本音と、口に出された言葉(または行為)との間のズレでもあります。岸田はそのようなズレを描くことに、たいへん長けています。
岸田の戯曲の「近代性」は、台詞の表面とその「裏」にある本音とのズレ、という形で作られた「心理」にあるのではないでしょうか。
そのような「近代的」な「心理の深み」が無条件によいものであるかどうかは、議論のあるところですが、「解釈する」という行為が好きな僕としては、岸田戯曲は解釈のしがいがあって、面白いなあと思います。
最後に、岸田國士の超簡単な年表を載せさせていただきます。
1890(明治23) 岸田國士、東京に生まれる。
1919(大正8) 船で日本を出てフランスをめざす。
1920(大正9) パリに遊学。
1923(大正12) 日本に帰国。関東大震災。
1924(大正13) 処女戯曲『古い玩具』を発表、注目される。
1925(大正14) 『命を弄ぶ男ふたり』『紙風船』発表。
1935(昭和10) 『沢氏の二人娘』発表。
1937(昭和12) 劇団文学座を結成。
1940(昭和15) 大政翼賛会発足。岸田は請われて文化部長に。
1942(昭和17) 大政翼賛会に不満をつのらせ、文化部長を辞任。
1945(昭和20) 日本敗戦。
1947(昭和22) 岸田はGHQにより公職追放に。
1950(昭和25) 演劇団体「雲の会」を結成。
1954(昭和29) 岸田國士、死去。
(清末 浩平)