2020年3月3日。今も衰えを見せない新型コロナウイルスの猛威が国内でも燃え始めた頃、劇作家別役実はその騒ぎを横目で見るように亡くなりました。1961年のデビュー作『AとBと一人の女』から、遺作となった2018年の『ああ、それなのに、それなのに』にいたるまで、実に140本以上の戯曲を世に送り出した現代演劇の巨人です。別役戯曲のページをめくれば、そこにはいつも、一本の木、電信柱、ベンチ、そして風が吹いていました。
半世紀にわたって第一線で筆を振るった劇作家の残した軌跡はあまりにも大きかった。参加者の年齢層が広い『本読み会』でも、誰もが何らかの形で別役戯曲に触れたことがあります。作品に触れ、そのつかみどころのなさに戸惑い、戯曲に出てくる登場人物の台詞のように「・・・」と語尾を濁らせたことがありました。今回は追悼の本読みということで、せっかくなら思い切り狐につままれようと選んだのが、1977年に書かれた『にしむくさむらい』です。
寝床を準備する女1と、通りがかる男1。女の手伝いをしながら、上から大きな石が落ちてくる物騒な仕掛けをこしらえます。どうやら男はここしばらく会社をさぼり、暗くなるまで公園でじっと待っているらしい。女はそんな甲斐性のない男を激しく咎めます。ふたりは決して夫婦ではありませんが、実際の夫婦と取り違えるような対話に変容してくる。そこへ互いの夫と妻も登場して、関係はさらに複雑に。4人はそれぞれにいる場所がなく、いく場所もない・・・こうして書いていても、あらすじを伝えるのが極めて難しい戯曲です。
会社を休む男1の苦しい言い訳と、それを咎める女1のやり取りはまるで夫婦漫才のようで、発明家とは何かを語り合う男1と男2の対話は、むしろ発明の虚しさばかりが悪目立ちします。不条理戯曲のお手本のように、重ねれば重ねるほど言葉は意味を失くし、さながらナンセンス・コメディのようになっていくのですが・・・終盤に女2が子供を亡くしていたことが明らかになると、舞台上の人間関係は急にリアルな様相を帯びてきます。いや、それまで冗談だと思っていた抽象的な関係が、はじめから怖いほどリアルだったということにあとから気づかされると言った方がいいかもしれません。
劇中の登場人物には、意志や主張、平たくいえば「〇〇がしたい」といった、近代劇の構造を支える目的と障害がないように思われます。しかし、ひとつひとつの台詞ではなく、状況の変化や「〇〇はしたくない」といった点に注目してみると、彼ら彼女らなりの生き方があり、それは私たちのそれとかなり似通った思考回路であることが分かってきます。伝聞や代弁、又聞きなど、日本語で対話する際の曖昧さを見事に劇構造へと落とし込んでいる。まさに「純日本製」の不条理劇ここにあり。
『にしむくさむらい』は1977年に発表された戯曲ですから、もう50年近く前の作品です。しかし、人間が社会とつながりを失っていく過程や、その中で弱者から順番に失われていく様は、まるでいま現在の状況を精緻に写しとったように迫ってきます。ちなみに、謎の伝染病に街の人々が右往左往する『街と飛行船』(1970)も、コロナのことを予言してたんじゃないのかと思うほどリアル。おそらく、これからどんな出来事が降りかかっても、別役戯曲は常に生々しく私たちに語りかけてくるのではないでしょうか。
余談ですが、私は神保町の本屋で一度だけ別役実本人を見かけたことがあります。「別役さんはどんな本を読んでるんだ」と興味を抑えきれず、本人が立ち去った後に本棚をのぞいてみたことがあるのですが、そこには聞いたこともない国の地図がズラッと並んでいました。なんというか、やっぱり別役実なんだな、と妙に納得したのを覚えています。
こんな戯曲を母国語で読めることに、感謝感激、そして合掌です。
(松山)