※谷さんとゴーチブラザーズさんのご好意により、戯曲の本読みパート以外、トーク部分のみ、アーカイブとして配信を再開いたしました。チャプターリストもついて、より視聴しやすくなっています。谷さんの貴重なお話をどうぞお楽しみください!
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【編集版】谷賢一さんと読む!『福島三部作』(『本読み会』特別チャリティー企画)【概要欄チャプターリストあり】
東日本大震災から10年。「あの日」がさまざまな形で思い起こされます。
今回は普段の『本読み会』を特別チャリティーイベントとして開催。読むのは、第64回岸田國士戯曲賞と第23回鶴屋南北戯曲賞をダブル受賞した『福島三部作』から第二部『1986年:メビウスの輪』です。『本読み会』主宰の大野と松山が、「この3月に『福島三部作』を読もう」と温め続けてきた企画です。それにはぜひ、作家の谷賢一さんをお招きして読みたい。そして、対面で実施したいと熱望してきた企画がようやく身を結びました。
コロナ禍の中、ここ1年ずっとオンラインで実施してきた『本読み会』でしたが、この日は多くの戯曲ファン・そして谷さんファンがお越しくださいました。会場は京橋の明治屋ホール。1933年に創建され、中央区指定有形文化財第一号に指定された格式あるホールです。緊急事態宣言明けやらぬ中、互いに知らぬもの同士が戯曲だけを共通言語に本を読む。それを書いた作家が目の前で聞いている・・・やや緊張の面持ちでスタートした『本読み会』です。
『1986年:メビウスの輪』は、福島県双葉町で原発反対運動を展開してきた男が、原発推進派として町長選に立候補するという「ねじれ」が推進力となる戯曲です。反対から推進へ。男がまったく反対の主張をすることになったのはなぜなのか?サスペンスでもあり、もはや不条理でもある筋立てですが、これは谷さん自身の2年に渡る取材に基づく史実でした。まさに事実は小説(演劇?)よりも奇なり、といった趣ですが、そこには男の密やかな野望、それに付け込む政治家、発展を希う町民、原発に依存する町の経済、戦後のエネルギー推進政策、日米あるいは日ソ関係などが複雑に絡み合い、全体としてまさにメビウスの輪を成している構造が戯曲を形作っています。お茶の間の対話が段階的に飛躍して、宇宙的規模を持った議論へと発展していく。戯曲中にも引用されているワイルダー『わが町』を想起させる作品です。こうした戯曲構造と、死者との対話、人形振り、ミュージカルなど、演劇的手法が見事にタッグを組んだ『福島三部作』、恐るべし。
いつもの『本読み会』では、「作家がここにいれば聞いてみたいなあ」と嘆くこともしばしばですが、この日は多くの質問が谷さんに寄せられました。演劇経験者もそうでない人も、『福島三部作』を観劇した人もそうでない人も、一堂に会して戯曲を囲み、さまざまな質問・感想をぶつけます。登場人物をどう作り上げたのか?どんな取材をしたのか?構成はどうやって考えたのか?迷ったりしなかったのか?戯曲はどうやって書いているのか?そもそもどうして演劇を始めたのか?谷さんも創作秘話やご自身のバックグラウンドについて余すところなく披露してくださいました。とりわけ印象的だったのは、取材や執筆の過程で「偶然起こったこと」を見過ごすことなく作品へ取り入れている姿勢でした。きっとその「偶然」には、このイベントも含まれている。谷さんの中で『福島三部作』は現在進行中の作品なのかもしれません。作品についてだけでなく、戯曲・演劇について考えさせられる4時間はあっという間に過ぎていきました。
谷さんは、『戯曲 福島三部作』の巻末エッセイで、演劇の儀式性について述べています。
“今回上演した三部作において、最も演劇的と思われた瞬間はいずれも儀式的な瞬間であった。そして演劇の歴史的に言っても上演の構造的に言っても、演劇とは儀式であるというのは最も間違いの少ない説明であるように思われる”
-谷賢一『福島三部作』巻末「演劇は娯楽か、メッセージか?あるいは……」より-
演技者と、それを見る複数の観客。同じ時間と場所と約束を共有しながら、目に見えるものを通して目に見えないものを共に見る。演劇は実に儀式的な行為です。
戯曲の本読みは演劇そのものではないけれど、戯曲を中心に据えて複数の読み手が声を出すと、不思議と儀式的な瞬間がやってくることがあります。読み手と、聞き手。それに今回は作家も。イベント終盤のホールの中には、作家の声、登場人物の声、そして読み手の声が混ざり合って、『福島三部作』という名の火を囲んでいるような情景が広がりました。
このチャリティーイベントには、私たちの予想を遥かに上回るカンパが寄せられました。イベントの必要経費を上回った額については、全て福島に寄付させていただきます。後日ご報告させていただきますので、ここではまず、みなさんにお礼を。そして、もう一度谷賢一さんにお礼を。作品を観客が受け取り、その返礼として作家に声を届け、それを受け取った作家が更なる作品を生み出していくような、そんな関係をこれからも築けることを願っています。どうもありがとうございました。
今日は、10年目の福島に祈りを。
(松山)
実はイベント開催前日の3月6日、谷さんの劇団DULL-COLORED POPが主催する「戯曲を読む会」に参加し、第三部『2011年:語られたがる言葉たち』を読んできた。福島の怒りと悲しみを真正面から描くこの作品、初めてこの物語に触れた時から、これは並大抵の覚悟で書けるものではない、一体どうやってその覚悟を決めたのだろうと不思議に思っていた。当日谷さんが戯曲について話す中で、第三部の主役のモデルとなった大森真氏に改めて取材をした1日のことが語られた。大森氏は、鋭い、どこか怖さのある方で、「福島を殴りつけるつもりか」と問われるような視線の中で話をしたという。それを聞いて納得した。そうか、谷さんはこの時、大森真氏からバトンを受け取ったのだな、と。
第二部『1986年:メビウスの輪』に関しても、同じ疑問を持っていた。原発政策の矛盾と欺瞞を、原発反対派のリーダーから推進派の町長へと転身した人物の中に見出す、その視線は厳しい。これも並大抵の覚悟で書けるものではない。イベント当日、谷さんに聞いてみると、第二部主人公のモデルとなった岩本忠夫氏の長男、信人氏に取材した際のエピソードが語られた(アーカイブ配信1:48:20頃から)。信人氏は、父親を恥ずかしくて嫌いだと言いながらも、父の若き日の姿に思いを馳せ、ポロポロ涙を流していたという。これにはグッときた。谷さんは反原発の立場をハッキリと取っている。第二部、忠夫氏が体現する原発推進の歴史を批判する厳しい視座の中に、なぜあの優しさが込められ得たのか、ストンと腑に落ちた。ここでも谷さんは信人氏から何かを受け取り、それが、“ままならないアニマル”である人間を哀しく見守る、“モモ”の視点を生み出したのだと思う。
谷さんはモモについて語る中で、“問いを立てる存在”だということを言っていた。小難しく考えるのではなく、素朴に問うことの意義。2011年のあの事故を、故意に起こそうとしていた人間など一人もいない。それなのに事故は起きてしまった。“どうしてこんなことになったのだろう”と、谷さんも素朴に問うたのではないか。そしてその問いについて考えるために、谷さんは3年に渡る取材を行った。とにかく当事者たちの話を聞いた。そしてその中で、彼らの“語られたがる言葉たち”を受け取ったのだ。
他者の行動や判断に対して、それには反対だ、許されないことだと、ただ批判を加えるだけならば、それはさほど難しいことではない。だが、相手の判断の背景まで視野に入れて、その上で言葉を紡ぐということとなると、そう簡単にはいかない。他者を安易に批判してしまうこの時代に、我々は他者の声と言葉にしっかりと耳を傾けられているだろうか。谷さんの創作に対する姿勢に改めて背筋を正された。
さて、『本読み会』は、そもそも私が戯曲を勉強するためにと始めた会だったのだが、また今回も貴重な学びが得られた。大満足だ。人々の声を言葉にする劇作の営みと、その言葉を声に戻す演劇の営み。その尊さと楽しさに、改めて思いを馳せた一日になった。今回の企画実現のためにご協力いただいたゴーチブラザーズ河守さん、配信担当川本さん、ご参加・ご視聴・応援してくださった皆さんと、もちろん谷さん。そして、谷さんに言葉を託してくださった福島の皆さんに、感謝を捧げます。今日は3.11。震災で亡くなられた多くの方に、祈りを込めて。
(大野)
今回はイベントレポート①として、主宰二人のレポートをお届けいたしました。
ご参加・ご視聴くださった皆様のコメントの紹介や、福島への寄付のご報告などは、こちら
イベントレポート②(参加者の感想&寄付の報告編)
をご覧ください!
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【編集版】谷賢一さんと読む!『福島三部作』(『本読み会』特別チャリティー企画)【概要欄チャプターリストあり】