前回のレポートからすっかり間が空いてしまい、なんと桜が咲いてしまいましたね。すぐに筆を走らせると、気ばかり先に走って熟考できませんから、少し寝かせておいて、ほどよく醸成されたものをみなさんにお届けしたいのです。バナナなんかも腐りかけの方がうまいと言いますし。
前回は「演劇のトライアングル」と題して、演劇の諸要素は、三つの要素が絡み合って出来上がっていることをお話ししました。
※前回の記事はコチラ→『動物園物語』上演レポート①「演劇のトライアングル」
今回は「演劇のトライアングル・俳優篇」。これもやはりトライアングルを構成しているのではないか、と、今回の公演を通じて溜飲を下げた次第です。
『動物園物語』を読むと、「ジェリー」と「ピーター」という二人の登場人物が出てきます。もちろん、二人とも実在の人物ではありません。作者オールビーがこしらえた妄想の産物で、戯曲の中だけに存在する架空のふたり。文字の中に押しこもっていると言ってもいいでしょう。これがひとつめ。(ちなみにこれ、「伊藤博文」とか「マイケル・ジャクソン」とか、実在の人物が戯曲の中に登場しても、あくまで架空の人物になってしまうのが面白いところです。)
ふたつめは、木星劇場での上演で『動物園物語』のジェリーとピーターを演じた、俳優の大野遙と松山立。俳優ですが、前者は普段臨床心理士を、後者は大学の職員として働いています。前者は家に帰ると妻に叱られてばかり、後者も家に帰ると妻に叱られてばかりいます。まがいもない実在のふたり。
そしてみっつめ。演劇を観るとき、私たちは実在のものと架空のものを同時に見ています。「動物園へ行ってきたんです。」と登場してきた男を見て、例えばお知り合いの方などは「あ、大野くんだ。」と思われるでしょう。この時点では、まず実在する人物を見ています。ただ、大野くんだと思っていた男は、どうやら職場にいるときと様子が違う。動物園に行ってきたとか、ニューヨークに住んでいるとか、なんだかよく分からないことを喋っている。分からないけどしばらく我慢して聞いていると、どうやら名をジェリーと言っているから、「ジェリーを演じている大野くん」を見るようになります。これがみっつめ。
その後、ずっと我慢して聞いていても、結局最後までよく分からないんだけれども、時間とともに「を演じている大野くん」の部分が見る側にとって薄れていけばしめたもの。決して「ジェリー」そのものにはならないわけですが、戯曲の中だけに存在するジェリーを大野くんが引っ張り出して、皆さんの眼の前で「まるでジェリーのように」言葉を話すのです。
「まるで〇〇みたい」を目指す演劇を、リアリズム演劇、あるいは写実演劇と言います。今回の『動物園物語』は、この路線にある劇だったのではないかと思っています。
じゃあ、まるでニューヨークのセントラルパークで、まるで外人ふたりが会って話してるみたいな劇にしたかったかというと、これがそういうわけでもない。
ここから先は第三弾に続きます!
(松山)