三寒四温どころではなく、一気に暖かくなりましたね。20年ほど前に結成した『本読み会』も、元はといえば上野公園でお花見をしているときに持ち上がった話でした。あれから何度桜を迎えたのか…春の訪れを祝うように、久しぶりにシェイクスピアを読みました。
『尺には尺を』は、昨年、新国立劇場で上演されたのが記憶に新しいところです。私は劇場へ観に行ったのですが、これが大変いい舞台で感激してしまいました。日本で観たシェイクスピアの中でも5本の指に入る出来だと思い、今回は楽しみな読み直しです。ちなみに、私が生まれて初めてイギリスに行った2006年にもストラットフォード・アポン・エイヴォンでRSCの『尺には尺を』を観ています。このときは時差ボケもあり、そもそも戯曲をよく知らなかったのでぐっすり寝てしまいました。こんなことになるなら、ちゃんと観ておけばよかった…。
あらすじはややこしいものです。舞台はウィーン。ヴィンセンシオ公爵の代理として統治を任されたアンジェロは、とても謹厳な男。そこで、かねてから有名無実化していた婚前交渉の禁止法を復活させて、クローディオに死刑を宣告します。ところが、クローディオの妹のイザベラに死刑撤回を迫られると、アンジェロはあろうことかイザベラに恋をしてしまいます。その間、ヴィンセンシオ公爵は変装して、ずっとアンジェロの様子を伺います。さて、クローディオとイザベラの運命やいかに?という喜劇仕立て。
『尺には尺を』の初演は1604年らしいので、シェイクスピアが作家としてまさに円熟期を迎えていた頃の作品です。『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、『マクベス』といった四大悲劇も同時期。そう言われてみれば、ハムレットやマクベスに通じる死生観がヴィンセンシオやアンジェロの口からも語られているのに気づきます。
それから、『尺には尺を』はシェイクスピアの「問題劇」と言われます。喜劇なのか悲劇なのかよく分からない。勘違い、変装、取り違いといった喜劇的要素がちりばめられている一方で、やたらと辛気臭い問題が発生する。そして劇中で起こった問題が最後の最後まで解決されず、観客は「え、終わりなの?ハッピーエンドなの?これ?」というモヤモヤした感想を持ちます。どかんと笑ってスッキリしようと劇場へ来たエリザベス朝の観客たちも、きっと私たちと同じようなモヤモヤを抱えて帰路に就いたはず。
実際、読んだ私たちからもこんな声が聞かれました。
「イザベラがアンジェロを説得するモチベーションがどこから来ているのかよくわからない。」
「そもそも、ヴィンセンシオ公爵がドラマの外側から手を出してきて、最後に全部持っていくのでズルい気がする。」
「クローディオがあまり出てこないので、被害者として感情移入できない。」などなど。
読んだ直後の違和感を語り合えるのは、戯曲の本読みをしているなあと実感する瞬間です。
ちなみにこうした疑問は、劇場でお芝居を観ているときにはあまり頭にのぼってこないシロモノです。劇場では俳優と観客が同じ船に乗り、ドラマという波を共に進んでいきますから、「でも、ちょっと引いて考えてみると…」ということが起こりにくいのです。しかし、文字で書かれた戯曲を手にじっくり読んでみると、新たな切り口でドラマを見つめることができます。このへんが「観劇」と「本読み」のそれぞれ面白いところ。
シェイクスピアの中ではあんまりメジャーとはいえない『尺には尺を』ですが…。かつてはピーター・ブルック演出でジョン・ギールグッドが主演をしたり、もっと新しいところではメリルストリープがイザベラを演じたりと、シェイクスピア上演史の中ではとても大切な作品です。これを機に国内外の『尺には尺を』をもっと見てみたくなりました。
今回は松山がレポートを書くのをすっかり忘れており、とても遅い報告となってしまいました。次回は熱の冷めないうちにお届けします。あしからず。(松山)