長かった分、終わったあとの喪失感も大きい今年のゴールデンウィーク。みなさんいかがお過ごしですか?連休に入ってすぐ、今年2度目『本読み会』開催となりました。まだまだ続くコロナ禍の中、今回もオンラインでの本読みです。
オンラインであんまり長いのもどうかと思い、中編くらいでいい戯曲はないものかと選んだのが、オスカー・ワイルドの『サロメ』。リヒャルト・シュトラウスのオペラでは有名ですが、もともと戯曲だったことは案外知られていないかもしれません。かつては松井須磨子も演じた名作ですが、演劇作品としてはあまり上演されませんね。
オスカー・ワイルドは『サロメ』に代表されるスキャンダラスな作品で知られますが、自身も作品に劣らず目を惹く人物でした。アイルランドで生まれ、数々の文豪を輩出した名門トリニティ・カレッジで学びます。ハリー・ポッターに出てくる荘厳な図書館のモデルとなった、あの大学ですね。
サミュエル・ベケットもバーナード・ショーも、アイルランドで牙を研いだ作家は、ロンドンやパリへ移り住んで文筆活動を展開するのが常。そのなかでもワイルドはひときわ「はじけ」ました。奇抜な服装と言動でたちまちサロンの中心となり、彼の周りにはいつも賞賛と非難が渦巻いていました。
「私は自分の天才のすべてを生活に注いだが、作品には自分の才能しか用いなかった。」とは、有名なワイルドの言。その才能で生まれた数々の喜劇は『理想の夫』、『真面目が肝心』、『ウィンダミア卿夫人の扇』といった戯曲として今に伝わっています。これらの喜劇群の直前に書かれたのが『サロメ』。しかし、そのあまりにショッキングな内容は検閲を受け、イギリスで初めて上演が許されたのは、執筆から40年が過ぎた1931年のことでした。
サロメはどこまでも自身の欲望に忠実です。サロメの台詞にくり返しが多いのは、そのほかのことを望んでいないことの裏返し。あまりにも純度の高い欲望は俗人を受け付けず、サロメの愛情と憎悪が孤高の預言者ヨカナーンに向かうのは、考えてみれば自然ななりゆきなのかもしれません。サロメは口数少なく、口を突いて出てくるのは非常にシンプルな欲求の塊です。これと俗人代表エロド王の対比は、悲劇的な雰囲気の中にもどこかおかしみを感じさせる効果を生んでいます。エロドはあらゆるものを手にしますが、本当に欲しいものが何かは分からない。清濁合わせ持つワイルドの世界観は、倫理の入り込む余地を一切与えません。
また、ワイルドは詩的イメージを操る天才でもありました。月の光はときに狂女となり、ときに処女となり、ときに赤い血となり、風のざわめきは目と耳を揺さぶって、不穏な雰囲気を書きたてながらクライマックスへと観客をいざないます。このあたりを読むとき、抜群の切れ味を発揮するのが福田恆存の翻訳でした。
このサロメ、もともとは聖書に記述がありました。ありましたが、このように残酷で純粋なサロメの人格を作り上げたのは、やはりワイルドの筆によるところ。また、たった1行のト書き「サロメ、七つのヴェールの踊りを踊る」からインスピレーションを受けて生まれたのが、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『サロメ』。聖書に端を発する創造の連鎖を垣間見た参加者一同です。ちなみに、「七つのヴェールの踊り」は映画『累』でも土屋太鳳が踊っていたと教えていただきました。現代まで綿々と続くサロメロード・・・
日本にいるとどうにもピンとこないキリスト教文化。このあたりを西洋戯曲だけでなく日本戯曲からも読み取れると、グッと血肉になるような気がするのですが。『本読み会』で「キリスト教」シリーズでも始めてみようかしらと、終わった後の主宰談話で話したところです。
そろそろ対面での本読みも恋しい、今日この頃です。
またお会いしましょう。
(松山)