四季がめぐり、『本読み会』が年に一度のシェイクスピアを読む季節がやってまいりました。とはいっても、いつもは「お正月だよ!シェイクスピア」と高らかに叫んでいたのですが・・・今年はちょいと遅くなってしまったので、「バレンタインだよ!シェイクスピア」ということで、選んだのは、ラブ・ストーリーの聖典『ロミオとジュリエット』。これを聞きつけて、今回は初めての方も大勢お越し下さいました。さすがに世界で一番有名な戯曲。これで人が来なかったら戯曲文化は本当におしまいです。
ただ、『ロミオとジュリエット』を最初から最後まで読み通したことのある人も案外少ないのではないでしょうか。「ああ、ロミオ、ロミオ、あなたはどうして・・・」の台詞は知っていても、実はロミオはロザラインとかいう別の女性が好きだったとか、なんでバルコニーで語らっているのかとか、そのあと二人はどういうわけで死んじゃったのかとか、「いわれてみれば、実は知らない」ことの多い戯曲です。
恋に狂う若者をシェイクスピアがどう描写するか?やはり見どころ聴きどころはここのところです。たとえば、バルコニーをみつけるや否や、ロミオは
だが待て、あの窓からこぼれる光は何だろう?
向こうは東、とすればジュリエットは太陽だ!
と、いきなり熱情を燃やします。この時点では、まだバルコニーにジュリエットは姿を現していません。ロミオは人ん家の庭で一人っきりなのですが、お構いなく
のぼれ、美しい太陽よ、妬み深い月を消してしまえ。
月に使える君のほうが、はるかに美しいために
月は悲しみに青ざめている
と、まくしたてます。これだから恋は恐ろしい。会う前からこれですから。
ところが、私がまだ演劇学校の学生だった頃のこと。「この場面、ロミオは空っぽのバルコニーに向かって叫んでるわけじゃないんだよ」と、教わったことがあります。「ここは観客に語りかけているんだ」・・・なるほど。「だから、厳密にいえば、シェイクスピア劇に『独白』はない。つねに役者同士、あるいは役者と観客の対話なんだ」と先生が続けたのをよく覚えています。
だいたい、恋というのはそういうものです。自分と相手だけで済んでいるうちはまだいい。ところが、「この人が世界で一番美しい」ことを他人にも強要しはじめたら赤信号です。しかし、赤信号が灯ってもアクセルを踏み抜くするくらいでないと、真の恋とは呼べません。ロミオはジュリエットが宇宙で一番美しいことを観客に無理矢理納得させようと必死です。ジュリエットが一番だと認めないやつは許せないんですね。そのうち観客が「もしかしたら、そうかも」と思い始めたら恋が客席にまで波及していく。劇場中がロミオとジュリエットの熱に浮かされていくのです。
そして、『ロミオとジュリエット』は「Q and A」の戯曲であることが、声に出して読むとよくわかります。質問と回答がくり返され、くり返されるたびに恋が加速していくのです。「どうしてあなたはロミオなの?」などの問いは論を待たず、一人きりでもロミオ
今まで恋をしたのか、この心?この目よ、誓え、しなかったと
真の美女を、今宵まで、目にしたことはなかったと
これも有名な台詞。自らに問いかけ、自ら応えることで自らを燃やしている。答えはすでに出ているのに、改めて問いかけることで強く刻み込んでいるかのようです。ついさっきまで別の女に熱を上げていたのに・・・!シェイクスピア戯曲としては悲劇に分類される『ロミオとジュリエット』ですが、その過程には喜劇的な要素が数多く散りばめられています。
喜劇は「はたから見ると滑稽だけど、本人たちは真剣そのもの。」という構造を基本に持つものですが、シェイクスピアはこれを悲劇にも応用し、恋に落ちた者の性質を俳優と観客の関係を利用しながら描いている。だから、決してロミオとジュリエットだけで成立する話ではありません。それを観ている観客が落ちていく二人を見届けることによって、「死んじゃうけど浮かばれる」という地点まで戯曲は到達します。マシな言い方をすれば、カタルシスってやつです。
シェイクスピアの翻訳は数多くありますが、今回は河合祥一郎訳の『新訳 ロミオとジュリエット』(角川文庫)を選びました。先行訳へのリスペクトもあり、声に出すとリズムもテンポも乗ってくる新鮮なシェイクスピアでした。もしまだ『ロミオとジュリエット』を読んだことのない方は、この訳から読んでみるのも面白いかもしれません。
(松山)