緊急事態宣言が解除され、東京でも朝は通園通学する子どもたちを見かけるようになりました。久しぶりに再会した級友と登下校を共にする姿は微笑ましいもので、見えないウイルスとの戦いをつかの間忘れさせてくれます。
しかし、いざ戯曲を読んじゃおうと立ち上がると、一気に連れ戻される現実。公共施設も対面、大声を伴う集会には未だ難を示す状況が続いています。対面型本読みのガイドラインなど練りつつ、今回もZoomでお会いする『本読み会』online;2と名付けて、テネシー・ウィリアムズの傑作短編『風変わりなロマンス』に集いました。
ウィリアムズの代表作『ガラスの動物園』が描かれたのが1943年ごろと言われるので、『風変わりなロマンス』はちょうどその直前に書かれた短編です。そのせいか、読んでいると『ガラスの動物園』に登場する人物がふと頭をよぎります。自伝的な作品の多いウィリアムズですから、自身の人生の断片を少しずつ戯曲に投影している様子がうかがえます。
しかし、『風変わりなロマンス』に登場するのはあくまで「小さな男」「女主人」「ボクサー」といった、名前のない人物たち。彼らはトムやアマンダになる前の、もう少し粗削りな筆致で描かれているようです。
街から街へ移動しながらその日暮らしの生活を続けている「小さな男」。貸間を借りて工場で働くものの、労働者としての肉体的強さはなく、心安らぐ相手は貸間に住み着く猫の「ニチェヴォ」のみ。女主人は生活の中で培われた現実的な強さを持ちつつも、小さな男に対してときに性的に、ときに母性的に歩み寄ります。小さな男は女主人に心を閉ざしつつも、どこかで人の温かみを求めてしまいます。
互いに「持たざる者」ですから、下心からではありません。そこへ女主人の父親にあたる「老人」が加わり、わけのわからない主張をし始めるのですが、それがどこか的を得ているような、やっぱり的外れなような・・・まさに『風変わりなロマンス』というタイトルがぴったりです。
最終盤、工場は追い出され、猫とも別れてしまった小さな男は絶望して貸間から去っていきますが、作者は彼の足跡を祝祭的な雰囲気で称えつつ、非常に明るい雰囲気の中で短編は幕を閉じます。このあたりが若き日のウィリアムズならではの筆致でしょうか。家族を捨てて船旅に出たトムや、精神病院へ送られるブランチとは明らかに違う、去り際の美学が現れています。
短編だと頭の中で補完するパートが多くなりますので、読み終わってからの会話もいつもより弾んだように思います。今回は『風変わりなロマンス』の上演を見た方もおらず(そもそもほとんど上演されない)、お互いが戯曲から受け取ったイメージを「あの作品に似てる」「あの小説に出てきた」といった感じで少しずつすり合わせていきました。巨大な作品に圧倒されて感慨に浸るわけではありませんが、こういう細かなやり取りは短編ならではの楽しみなのかもしれません。
対面型の『本読み会』で短編を読む機会も少ないので、逆にこういうときこそチャンスかもしれないですね。ちなみに日本語で読めるテネシー・ウィリアムズは『テネシー・ウィリアムズ一幕劇集』(早川書房、1981年)と、『テネシー・ウィリアムズ しらみとり夫人・財産没収ほか』(ハヤカワ演劇文庫6,2007年)に珠玉の短編集が収録されています。
オンライン本読み第一の課題は、インターネット接続うんぬんの前に「テキストが手に入るかどうか?」です。第1回目のonline;1では青空文庫から岸田國士を選びましたが、第2回目は市販でも手に入りやすいハヤカワ演劇文庫から。ここから図書館が通常通り稼働していけば、戯曲選びは対面型と遜色なく多彩になるはず・・・なのですが、もう一つの問題に「集中していられる長さ」があります。
私も大学でオンライン授業をやっていますが、教員も学生も、オンラインだとなぜか倍くらいぐったり疲れるのです。『本読み会』の通常開催は4時間ですが、オンラインだとまあ2時間〜2時間半くらい。すると戯曲は短編・中編あたりに絞られます。
ということで、次回も傑作短編を一気に読んでやろうと画策中の『本読み会』です。引き続きオンラインでお会いしましょう。
(松山)