「私はハムレットだった。」
「私は」って、お前誰だ?「ハムレット」って、急になんだ?「だった。」ってどういうことだ?今はちがうのか?どこからどう見ても謎だらけのセンテンス。ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーの超問題作『ハムレットマシーン』は、あまりにも有名なこの台詞で幕を開けます。
ついに禁断のハイナー・ミュラー。作品は『ハムレットマシーン』そして『指令』の二本立てです。わりと長くやっている『本読み会』ですが、こんなに手探りで進めていった回は記憶にありません。読み進むほどに、参加者の頭の上には「???」マークがポワンポワンと浮かんでいくのがはっきりと見えました。もちろん、私の頭上にも。せっかく休みの日に集まってもらったのに、「最後まで読んでみたはいいものの、全然わかりませんでしたね」では具合が悪い。この戯曲を『本読み会』で扱うには、人知れぬ躊躇があったのです。
「まあ、ビビっててもしょうがないから、とりあえず読んでみますか」と、声に出して読んでみたところ、思わぬ変化が現れました。この無機質な言葉たちは、こんなに情緒豊かな台詞だったか、と驚かされるのです。依然として話はよく分からない。しかし、この戯曲にははっきりした構成があり、台詞の持つリズムやトーンが奇妙なイメージを喚起させ、そのイメージたちは読み手の中でコラージュされて、それぞれに一枚の絵が浮かび上がります。それは、カタルシスさえ感じ得る体験なのです。理解ではなく、体験。頭の上には「!!!」マークが。
しかし、再び黙読に戻って文字を読み取ろうとすると、テキストは途端に読み手の解釈を拒絶して、バラバラにくだけたピースに戻ってしまうような感触を覚えます。まるで『トイ・ストーリー』のように、子どもが寝ている間だけ動き回るおもちゃよろしく、夢を見ている間だけの命なのです。
ミュラー自身、自分のテキストを演出家に解釈されることを嫌いました。彼はこんな言葉を残しています。
「いいテクストというのは演出家や俳優による解釈など必要としない。テクストが言うことはテクストが言う。(中略)解釈は観客の仕事であって、舞台で起こってはならないのだ。観客からこの仕事を奪ってはならない。観客からこの仕事を奪うのは、消費主義、噛んだものを食べさせる。それが資本主義の演劇だ」(『ハムレットマシーン シェイクスピア・ファクトリー(ハイナー・ミュラーテクスト集)』より)
私たちは解釈を手放し、ただ、声に出して、つまり身体を通して読んでみた。それで良かったのかもしれません。
しかし、はたして私たちが読んだのは何だったのか?
戯曲だったのか、小説だったのか、テキストだったのか、現代詩だったのか、散文だったのか、メモだったのか、それともどれでもない何かだったのか?
この疑問は、『ハムレットマシーン』と『指令』を読み切ってみても、依然として私たちの前に大きく立ちはだかります。
確かなのは、私たちが読んだのは、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』と『指令』。それ以外の何物でもなかっただったということだけです。
(松山)