生き直せる人生も、決して生き直してはいけないのだ。行き直したら、それはもう人生ではなくなってしまうのだから。
梅雨の匂いが漂う6月最後の日。始まったばかりと思えた一年も、ちょうど半分を終えました。いつでも時間は容赦なく過ぎて、立ち止まるヒマもなければ振り返る余裕もない。橋を渡っている自分を外から眺めることができないように、人生の真っただ中にいる者には、決して人生を見ることはできません。ソーントン・ワイルダーが『わが町』で描いたのは、まさにそのことでした。
何もない裸の舞台に「舞台監督」なる人物が現れ、劇の題名、作者の名前、演出と役者の名前、そしてここは「グローヴァーズ・コーナーズ」という架空の町で、今からお芝居が始まります、と観客に告げます。演劇を演劇として見せる手法は今でこそ珍しくありませんが、初演当時はずいぶん物議を醸しました。舞台装置がないとはどういうことだ。役者が椅子やテーブルを運んでるとはどういうことだ。全然ドラマチックじゃないのは一体どういうことだ・・・等等。たしかに、私たちはそういったものを楽しみに劇場へ足を運ぶことがあります。豪華な装置に華麗な衣裳を見るだけでも、ああ、見たな、という気になることはあります。でも、それらは演劇のほんの一側面。本来、演劇が汗水たらしてすることは、人生そのものを描くことでしょう。『わが町』の舞台には何もありません。しかし、人生のすべてが置かれています。
ワイルダーがこの戯曲を書いたのは40代のとき。参加者一同不思議に思ったのは、たかだか40年くらいしか生きていない壮年の男が、どうしてこんな、人生のすべてを見てきたような芝居を書けたのか、ということ。まるで何回か人生をやってきたような達観っぷりなのです。チェーホフなんかもそうですが、たまにいますね、こういう「全てが見えてしまった」作家が。優れた芸術家の使命は、もしかしたら、見えてしまった世界を誰か他の人に伝えることなのかもしれません。
終幕近く、エミリーと舞台監督は語ります。
エミリー 人生というものを理解できる人間はいるんでしょうか--
........その一刻一刻を生きているそのときに?
舞台監督 いいや。
........聖者とか詩人とかはあるいはね--いくぶんかは。
冷たくも温かくもなく、ただ人生を見つめる舞台監督に、ワイルダーの姿が重なります。少し静謐な雰囲気の中、今回の『本読み会』も幕を閉じました。
P.S.
今回、個人的にびっくりすることがありました。ご参加下さった方の中に、僕が高校時代に教わった先生がいたのです。しかも、主宰の大野くんが顔を出した別の読書会がきっかけで今回参加されたとの偶然。こんなことってあるんだな。どうですか、先生。ちょっとは成長しましたか?
【締めの一句】
つづければ いろいろあるぞ 『本読み会』
たぶんしてないね、成長。
(松山)
卒業して15年、ですか。ずいぶん成長されたのではないですか。何よりもイギリスで英語とシェークスピアと芝居を学んでこようとされたその意欲と行動力たるや、やはりK高生はただものではありませんね。
またこういう機会に、同じ時期に同じ空気を吸ったであろう人と再会できるのも、人生の妙味? ワイルダー、面白かったですよ。
そういえば、高校時代に「第二外国語」枠でフランス語をやったこともありました。今思えば、高校から第二外国語を設置しているのは珍しかったのかなと思います。たしかスペイン語とか中国語もありましたね。今になって、ああ、ちゃんとやっとけばと思うことばかりです。次回のご参加もぜひお待ちしております。ワイルダーの次は、激しいのも読みましょう。
松山