頭にずっと「???」が浮かびながらも、どうにも目が離せない。『本読み会』online;3 は、ハロルド・ピンターの『部屋』を選びました。イギリスの、そして世界の劇作家として唯一無二の地位を築いたピンターですが、『部屋』は1957年、ブリストル大学演劇科によって上演された彼の処女作です。ピンターの戯曲を読むときは、ピンターの戯曲を読むときにしか味わえない、なにか名づけ難い感触があるもの。第一作目から全開でした。
舞台は、おそらくマンションの一室。夫婦とおぼしきバートとローズ。ローズは地下室のことを終始気にかけていますが、バートの方はひとことも口をききません。家主とおぼしきキッド氏が訪ねてきますが、彼との対話がどうにも噛み合わない。いや、「噛み合ってないぞ!」と読み手がツッコミを入れているだけで、当の本人たちはあまりそのことを気にしていない模様。
続いてサンズ夫妻と名乗る二人が戸口に現れ、ずかずかと部屋に入ってはテーブルの上に腰掛けます。「それ、失礼でしょ!」と心配しているのは読み手ばかりで、当の本人たちはあまり気にしていない様子。家主を探しているというサンズ夫妻。気になる地下室にも行ってきたといいますが、ともかく対話の内容が食い違っています。
終盤、ついに地下室からやってきた黒人のライリーという男が現れます。ローズは「私はあんたを知らない」といいますが、ふたりのやり取りを読んでいると、ライリーとローズの間には何か過去があると疑わざるをえないような状況です。そこへ帰ってくるバート。人が変わったようにまくしたて、挙げ句の果てにライリーに暴力をふるいます。動かなくなったライリーの傍でローズが失明。「えっ、なにが?どうして?」と思う間もなく幕がおります。
このあらすじだけ読んでもなにがなんだかわかりませんし、私も「これじゃわかんないだろうなあ」と思いながら書いています。もちろん、私の筆の悪さもあるのですが、ピンターの戯曲はそもそもストーリーや筋立てを楽しむシロモノではありません。
ピンターの戯曲の醍醐味とは、読む者あるいは観る者が、戯曲の醸し出す違和感に「それは、もしかしたらこういうことなんじゃないの?」と頭の中で応答していくところにあります。ピンター戯曲は表面的な静かさとは裏腹に、舞台上と観客席の間で息をつく暇もないほど激しい応酬が繰り広げられているのです。これは間違いなく「観客参加型」の戯曲ですし、観客が参加しないと舞台が成立しない構造になっています。実際、『部屋』を読んでみた参加者の多くから様々な解釈が飛び出し、そのディスカッションは戯曲本編よりも長いくらいでした。
ピンター戯曲の多くを翻訳した喜志哲雄は、こんなふうに『部屋』の新しさを説明します。
『部屋』という戯曲の新しさは、起る事件だけを提示し、それについての解釈を省いたところにあった。ピンター以前の劇の多くは、事件だけでなく、事件だの人物の動機だのについての説明をも含んでいるのが通例だった。その結果、観客は、あたかも事件や同期についての説明もまた現実の一部であるかのように錯覚することとなった。劇作家ピンターが革命的であったひとつの理由は、この錯覚が錯覚にすぎないことを疑問の余地のないやり方で指摘したところにある。彼は、事件の解釈はあくまでも観客に委ねることにしたのだ。
喜志哲雄『劇作家ハロルド・ピンター』より
出来事の因果関係がないわけではありませんが、因果関係がかぎりなく見えにくい、あるいは見えないように隠されている。ピンター戯曲が、リアリズムだけど不条理、不条理だけど限りなくリアリズムと感じてしまうのは、きっと私だけではないでしょう。
そして、見えないもの、見えにくいものへの恐怖心は、人を凶暴化させます。「安心・安定」を求める心が、他をことごとく排除するべく人を暴力に駆り立てる様子は、このコロナ禍で私たちが日々目にするようになった光景です。見えないウイルス、見えない感染者、そして見えない出口・・・2008年に亡くなったピンターは、コロナなどもちろん知りません。しかし、見えないものへの不安や恐怖は、古今東西問わず普遍的な人間心理です。
ピンターは、その心理を戯曲という構造物を用いることによって「見える」ようにしたのではないでしょうか。そして、これが第一作だというんだから、やはり天才は恐ろしい。
(松山)