加藤治子さんの死を悼んで 〜加藤道夫と、新演劇研究会と〜
はじめに
今月2日、女優の加藤治子さんが亡くなった。92歳だったそうだ。テレビドラマ「寺内貫太郎一家」など、向田邦子作品の母親役などで親しまれた女優だが、若い世代はあまり彼女の出演した作品には接していないかもしれない。スタジオジブリの映画「魔女の宅急便」で、孫のために鰊(にしん)のパイを焼いたおばあさんを演じたと言えば、その優しい声を思い出していただけるだろうか。今回こうして文章を書こうと思ったのは、彼女が私にとって特別な女優さんだったからだ。だが、実は私も“若い世代”の一人で、加藤治子さんのお仕事についてはほとんど知らない。出演した作品もそんなに見ていない。にも関わらず、こうしてこの文章を書こうと思ったのは、それは、彼女が劇作家・加藤道夫の妻だったからであり、「新演劇研究会」に所属していたメンバーの一人だったからである。
この後の文章で触れていくが、私はこの劇作家とこの会がとても好きだ。好きが興じて、実は以前一度だけ、加藤治子さんに手紙を出したことがある。『本読み会』で「新演劇研究会」当時のお話をうかがえないかと、つまり講演を依頼したのだ。残念ながらその時は断られてしまったのだが、それも私には特別な思い出になっている。
私は、新演劇研究会とそこにいた人たちのことを尊敬していて、彼らのことをもっとたくさんの人に(特に”若い世代”に)知ってもらいたいと思っている。そんな訳だから、少し長くなってしまったのだが、この文章も最後まで読んでいただけたら嬉しいな、と思う。
マイナーで純粋な劇作家、加藤道夫について
さて、劇作家・加藤道夫のことを知っている人はどれくらいいるのだろう。以前は本屋の演劇書コーナーに行くと、彼の代表作「なよたけ」の単行本がほとんど必ず置いてあったのだが、最近はあまり本屋に行かない(Amazonで買うようになってしまったから…)ので、それも分からない。あんまり置いてないんじゃないかなという気がする。数年前に『本読み会』で「なよたけ」を読んだこともあったが、その時は、「加藤道夫は初めて読みます」という参加者が多かったように記憶している。とにかく、現代ではマイナーな作家だと思う。あまり長くなってしまうので、ここでは彼の経歴などはあまり詳しくは書かないが、参考までに、ウィキペディアのリンクを貼っておこう。
Wikipediaで”加藤道夫”を調べる
簡単にまとめると、
・戦中、芥川比呂志らと共に、学生劇団「新演劇研究会」を結成した。
・処女作「なよたけ」が代表作。
・戦争に行き、生還したが、戦後8年して自殺した。
・ものすごく純粋な人だった。
という作家だ。
4番目に挙げた「ものすごく純粋な人だった」について、少し詳しく紹介しておきたい。先のウィキペディアの記事の中にも紹介されていたが、三島由紀夫は「劇作家としての加藤道夫」という文章の中で、
「私は何の誇張もなしに云うが、生まれてから、加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない。芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云いやすくして行い難いことだ。われわれは、恥かしながら、みんな宙ぶらりんのところで生きている。」(三島由紀夫「劇作家としての加藤道夫」より)
と述べている。その他、
「加藤は、寛容とか、あたたかい人柄とか、そういう表現では間に合わぬ一種ふしぎな「親和力」をもっていた。実際、時にはそれをもてあますほどに、もっていたのである。」(芥川比呂志「「なよたけ」の頃」より)
※旧仮名遣いを修正。
「正直に言って、ぼくは、今の日本の作家たちを見渡して、自分との才能の違いや、仕事振やに羨望や嫉妬を感じたことはある。しかし、生き方に於て、その人たちをうらやましいと思ったことはない。自分の及びもつかないような高い次元で生きているということを感じたことは一度もない。(中略)加藤君が死によって見せつけた生の次元に生きる可能性や自信がないとしたら、加藤君と同じように死ぬか、何くそと思って図太く、傲岸に生きる他はないではないか。」(遠藤慎吾「悲劇喜劇1954年2月」より)
など、これ以上は挙げないが、彼について書かれた文章を読んでいると、こんな人間が本当に存在できたのか、と感じるような文言が並んでいる。そして、彼を知る一人一人が、愛情を持って彼について語っているのだ。こうした言葉に触れていると、あぁ、この人はただ純粋というだけでなく、本当に暖かみのある人間だったんだなぁ、としみじみ伝わってくる。私もまた”宙ぶらりんに生きる”一人として、彼のような「詩のある生き方」ができたらなぁ、と憧れる気持ちをずっと持っている。
新演劇研究会について
さて、新演劇研究会についてご紹介したい。この会ができたのは、日米開戦の直前、1941年4月29日のことだ。当時慶応大学の学生だった加藤道夫と、その同期生だった後の演出家俳優・芥川比呂志の二人が中心となって結成された、いわゆる学生劇団である。劇団という名をつけず、あくまでアマチュアらしく「研究会」を名乗り、既成の新劇と一線を画するために「新演劇」という呼称をつけたそうだ。会のメンバーには、加藤治子(当時は御舟京子という名で活動していた)、原田義人、鳴海四郎(当時は鳴海弘)、鬼頭哲人、中村眞一郎など、戦後の演劇界、文学界を支えた、そうそうたるメンバーが名を連ねている。この劇団では、休会となる1943年までの2年間に、2回の発表会が行われ、計5本の芝居が上演されているのだが、その中には、アメリカ、フランス等の海外戯曲も入っている。芥川の言葉を紹介しよう。
「その頃の、戦争前夜の学生生活には、無論今のような演劇熱、あるいは新劇熱というようなものはなかった。学校に演劇部はあったが、どこでも大抵、統制された既成劇団の後を追って、「国粋的な」芝居ばかりやっていたから、私達は到底ついて行けなかった。というよりも、私達は既成の演劇に、ちっとも感心していなかったのだ。新演劇研究会のレパートリーは、当然アイスキュロスから、当時無名の新人アヌイにいたる外国作家の作品でみたされていた。」(芥川比呂志「「なよたけ」の頃」より)
※旧仮名遣いを修正。
インターネットなどない時代、海外の演劇事情など、なかなか知ることができなかっただろう。ましてや国全体が戦争に向かっている時代だ。相当の困難があっただろうと思う。「特高の刑事が様子を探りに来ていた」こともあったそうだし、「上演台本は全て事前に検閲と許可を受けて」「客席の一隅に”臨検席”が設けられていた」という。(鳴海四郎「新演劇研究会のこと」より)
新演劇研究会はただの学生劇団ではあったが、戦中の海外演劇研究の最前線でもあったのだ。
新演劇研究会のホントの魅力!
さてさて、なんだか「海外演劇研究の最前線!」とか真面目な話が続いたけれども、実は私が新演劇研究会の本当の魅力だと思ってるのは、そういう部分ではない。新演劇研究会が本当に魅力的なのは、この会に彼らの青春が詰まっているからだ。加藤道夫全集 に「新演劇研究会当番日誌」というものが収録されている。これは、当時新演劇研究会で使われていた交換日記のようなもので、日誌の中には、稽古の様子や演劇論、些細な出来事や気持ちなどが、メンバーそれぞれの言葉で綴られている。百聞は一見にしかず。いくつか抜き出して、紹介してみよう。
まずは、彼らがいかに楽しい時間を過ごしていたかが分かる記述から。
五月五日(火)
端午の節句の日なり。配給の柏餅をひとつずつ食べてみんなにこにこと集ってきました。
”亭主学校”と”田舎道”の本よみ。今夜はどうしてこんなに笑いたくてたまらないのでしょう。本読の最中にかわるがわる誰かがふきだすのです。そして当人は「ダッテェヤチボゥがワラウンダモン・・・」etcっておとなりのせいにしてしまうのです。でも本当のところはみんなが柏餅で陽気になったのか、すっかり初夏めいた風に気が狂ったのでしょうよ。それで本読みは何だか調子がでなかったけれど、もう卒業にちかい。
おわってから原田持参のおさとうのまぶしてあるドーナツを、余ったのはくじびきをして、仲よくおいしくいただきました。〜略〜(須田潤子)
五月十二日(火)
今日は〈田舎道〉独占。
須田・中村・加藤、の三人、六時頃から集合、石毛嬢なかなか来ない。変だな、と思っていたが、来ない。確かに約束しといた筈なのに、と思ってもう少し待つ、来ない。
七時三〇分を過ぎた。遂に電話を掛ける。と、なーんだ、ちゃんと家にいらっしゃる。忘却の淵から、例の暢気な声が聞こえて来た。で、帰ることにした。弘前のリンゴをかぢって。〜略〜(加藤道夫)
七月十一日(土)
〜略〜 ーーモリエールーー御舟が具合が悪いので、とてもみんな心配した。本当に体を無理しないで大事にして下さいよ。ーー病は気からーーことに御舟のは、絶対に神経性のヤツですよ。
モリエール、好調らしかった。御舟も次第に元気回復。救心をお飲みなさい、救心を! 必ず効くと信じて! それからみんなも飲みなさい! 効果は絶対保証! 〜略〜(加藤道夫)
九月八日(火)
〜略〜雑談約半時間。痛みと”くすぐったさ”と痒さの三つのうち、どれが一番耐え難きかとの議題なりき。痛さは耐え易しとの意見に全員一致。痒さが一番苦しと太宰が申した(多分”皮膚と心”の中であったと思うが)由、芥川述ぶれば、石毛一人敢然とこれに抗し、くすぐったさ一番なる事を高唱す。されど時既に八時近くなれば、本題の”驟雨”に入る。恒子声低し、朋子艶なしとの毎度同じ注意を受く。立稽古は愉し。道程を楽しむこころ。〜略〜(石毛文野)
ね、すごくチャーミングでしょ。
次は、演劇のことについて書いてあるところ。
五月二十一日(木)
『モリエール』の日。全幕通して一回。お茶をのみ楽しく発表会の日を語る。更に一幕だけ返す。
「火曜日の方が良かったね」と云う。たしかに今日は不調だった。けど明日こそ・・・。あぁ、少しずつ道がひらけて来た。〜略〜(御舟京子)
六月十三日(土)
午後にはみんなで藝小の”血”を観に行った。
つまらない! これは異口同音に漏らした不満です。
それから、新生彫刻展を観に行く。
途上にて、建畠氏始め、鬼頭・中村・ミフネにあう。
期せずして、新演劇会員の大半が落ち合った。〜略〜(加藤道夫)
七月一日(水)
前半に「田舎道」を、後半に「亭主学校」をしました。
モリエール劇の俳優へ。この二三日、一部の人々を除いて停滞している様な気がしますね。あるいは僕自身だけなのかも知れない。どうしたら抜けあがれるだろう。
ここらでもう一度、この稽古の始められる当初、私達の話し合った”演技の古典性”の問題、あるいはまた”想念の肉体化”のこと等を思い出してみましょう。もちろん、今さら取り上げるというのが却って妙なくらいなのですが、今私達は如何にして舞台に、”人間の統一を立上がらせる”かという時にあるのです。そして、それは最早、一人々々の俳優の情熱に頼るだけでなく、一人々々の自覚せる演技力に俟たねばならぬのではないでしょうか。瞬間たりとも怠慢な演技が無いように。
幸い演出である芥川君はまた主役スガナレルであるので、私達の演技は、まず彼の演技の生まれる平面と同じ所から始める様努力すれば良いのです。
当たり前のことを今更とも思いますが、ちょっと不安を感じて。(鳴海弘)
十月二十四日(土)
ルイ・ジュヴェの「演劇論」(コメディアンの反省)が出ました!ジュヴェは自分が俳優としての生涯を考える時、ジロドゥーの劇を上演したこと、それだけでもう充分だと告白しています。
ジュヴェは、僕達と同じ心を持ったエトランジェーです。必ず、みんな読んで下さい。また、研究会をします。(加藤道夫)
いつも一緒にいて、語り合い、笑い合う。理想を信じて突き進む。今も昔も変わらない、若者の姿、青春そのものではないだろうか。特に演劇の現場にいる人は、彼らのことがよく分かることと思う。
しかし、やはり彼らが生きていたのは戦争の時代である。最後に、数は少ないのだが、そうした時代を感じさせる記述を紹介しよう。
四月二十一日(火)
今日も警戒管制の暗い道をみんな方々から集って来る。幸いに心は明るい。サイレンが不気味に響くと私は真先にみんなのことを、研究会のことを思う。どんなことがあっても、例え総ての劇場が爆破されて舞台が失われても、台本が一冊残らず焼けっちまっても、私達の演劇を愛する魂の一致が乱れることはないだろう。演劇は私達の心の中で健かに成長するだろう、だけどそれはそれとして私の大好きなみんなよ、無事でいるように・・・〜略〜(新井八千代)
七月三日(金)
久しぶりで警戒管制下の稽古、という何となく嬉しそうなのは欠席のつもりであったにもかかわらず急に出席に変更出来たのがこの警報のおかげであったからです。〜略〜(新井八千代)
九月十八日(われまことに爾曹に告げん 金曜日)
甚だ私事にわたり申しわけないが、芥川、鬼頭、そして不肖原田、召集令を受く。既に夜惟初更に沈みたりき。電話の往来一二あり。加藤芥川とことばを交うる悦びを持つ。甚だ静穏なる一夜なり。〜中略〜
横浜より帰宅の比呂志君より電話、同君の朗声凛然として余が耳劈を搏つ。これ男子の真骨頂なり。これに応うる余が言語あるいは明晰たらざりしことを恐れるなり。〜略〜(原田義人)
※以上の日記部分、一部旧仮名遣いを修正している。
若き才能たちが、和気藹々と芝居を作っている。彼らの心は希望に満ち溢れているが、時代は戦時下。新演劇研究会は、会の中心的存在であった芥川を招集で失い、その他のメンバーも一人、また一人と招集されていく中で、ゆとりを失っていく。そして1943年1月、力尽きたかのように休会に至っている。新演劇研究会当番日誌は、加藤道夫が「反省」と題した記述で終わっている。
その後加藤は、自身の代表作となる「なよたけ」を遺書代わりに書き上げて戦地に赴き、そして、彼はそこで地獄を経験するのである。
彼が戦地に行っている間、「なよたけ」の生原稿は、万一に備えて鬼頭哲人、加藤治子の手によって筆写され、その生のままの原稿が、「すごい戯曲がある」と、演劇人の間で広く読まれていったそうだ。
彼らは何故、このような時代に、希望を、理想を失うことなく生きていられたのか。
彼らは何故、このような時代に、演劇を愛することができたのか。
鳴海四郎は新演劇研究会についてこう述べている。
「こんなふうに書いてくると、西洋かぶれをした世間知らずの坊やたちのはかないサロン的集まりということにもなるだろうが、当時の戦雲低迷の暗い社会情勢のもとでは、それが私たちにできた精いっぱいの抵抗だったように思う。だからこそ余計に私たちはひたむきだった。いま日誌を読み返しても、戦争や時局に関する言及は驚くほど少ない。無視も逃避も、抵抗の一種だったのではなかろうか。なにしろ、これ以外に生きがいが見つけられなかったのだから。」(鳴海四郎「新演劇研究会のこと」より)
いつ死ぬか分からないからこそ燃え上がる情熱の力を感じる。私は、彼らのように生きているだろうか。生きられるだろうか。尊敬の念を禁じえない。
加藤治子さんからの返事
上述した加藤治子さんへの講演依頼の手紙には、以上書いてきたような想いを簡潔に記して送ったように記憶している。私は、新演劇研究会の時代のことを、当事者の生の声で聞いてみたかったのだ。手紙を出してしばらくして、加藤治子さんの所属事務所の方から、代理として電話で返答があった。もう10年近く昔のことになるので、正確な文言ではないかもしれないが、こういった返答だった。「あの頃の友人も皆亡くなってしまいました。私にお話できることはありません。」
残念な気持ちはもちろんあった。自殺で夫を亡くした彼女の心に踏み込んだかもしれないという罪悪感も多少感じた。だが不思議と、その一言だけで納得させられるものがあった。私の独りよがりかもしれないが、とてもありがたい言葉だと感じた。
ひとりのおんな
今回の訃報に接し、加藤治子さん著の「ひとりのおんな」を読み直した。久世光彦との対談を掲載したもので、加藤治子さんの人生を振り返っていく内容だ。私生児として生まれた自身の出生、新演劇研究会での加藤、芥川との思い出、戦争と加藤の自殺。そうしたことを、穏やかに、軽く、暖かみのある語り口で、さらりと語っている。読んでいて、お芝居の中での加藤治子さんの声が思い出される本だ。加藤道夫の戯曲と併せて、皆さんにも、ぜひ読んでもらいたいと思う。大変長くなったが、最後に「ひとりのおんな」から一箇所だけ紹介して、この文章も終わりにしたいと思う。
「それから長い戦争があって、それが終わり、三人がまた出会えたときが、私の人生の中で一番幸せだったような気がします。道夫が帰ってきた夏、芥川さんが当時住んでらした鵜沼で芝居をすることになり、昼間はチェーホフの『熊』を学校の講堂でやり、夜は海岸を散歩しました。砂の上に身体を横たえると大きな夜空に光っている星の中に吸い込まれていくようでした。私達はこうしてまた会えた。ほら、手をのばせばそこに本当にいる。戦争は終わった。これから私達は芝居をやって生きていける。そう思うと嬉しくて嬉しくて誰にお礼を言っていいかわからなくて、私、月の光の中を、波打ち際を何か叫びながら、どこまでも走りました。もうそうするしかなかったんです。」(加藤治子「ひとりのおんな」より)
加藤治子さんと、戦争の時代を生き抜いた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
このような独りよがりの追悼文を、最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
大野遙
以下にAmazonのリンクを貼っておきます。よかったら読んでみてください。
加藤道夫全集 (1983年)
なよたけ
ひとりのおんな (福武文庫)
読み終わって、心の奥がじんわりと暖かい気持ちになりました。
本読み会でみなさんと戯曲を読み解く作業をしていると、ふいに人間というものが愛おしくてたまらなくなる感覚になるのですが、今回の追悼文を拝読して、同じような感覚を覚えました。
仲間っていいな、演劇っていいな、そんなふうに改めて思います。
わずかに体温が上がり、通勤中の重い身体に少しエンジンがかかりました。
ご冥福をお祈りいたします。
コメントありがとうございます。そう言っていただけて、書いた甲斐がありました。またよろしくお願いします。