ブログとつぶやきの間くらいと思って、「傍白」という名前をつけたのに、想定よりもずっと頻繁に、ずっと長文で更新しちゃってます。
そのうち飽きて、ぐうたらになると思うんですが、そうなっても、
最初の頃は良かったのに・・・
とか言わないで下さい。
という訳で、今回も割と長文です。
『本読み会』にもたまに参加してくれる谷賢一さん率いる劇団「DULL-COLORED POP」の上演中の芝居『完全版・人間失格』が良かったので、劇評まがいの感想文を書きました。
だいぶ個人的な意見なのを、最初にお断りしておきます。。
(業務連絡:松山さんへ。松山さんも芝居観たら劇評でも感想でも書いてくださいよ。そうすれば少しは更新頻度の足しになるでしょ。)
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魅力的な作品を発表し続けている谷賢一氏の新作『完全版・人間失格』を観てきた。大変な人気のようで最近は名前もよく聞くが、青山円形劇場も大入りで活気があった。
私は彼の芝居をもう長いこと見続けてきたが、彼は昔から破滅的なものへの一種異様な憧れを持っていたように私には思われる。「DULL-COLORED POP」という名前が示す通り、破滅的なものをポップに描くというのが彼の手法であり、その人気の秘密でもあるわけだが、そうした破滅的なものは、『ラパン・アジルと白の時代』や『JANIS - Love is like a Ball and Chain -』、『悪魔の絵本』などといった彼の過去の作品では、芸術的才能と孤独を抱えながら破滅に向かっていく人物に象徴され、その周りを取り巻く人物たちの「語り」の中に、破滅に向かうその姿が浮かび上がるという構造を持っていた。(そしておそらくこの構造こそが、彼の本来的な表現のあり方なのではないかと私は思う。)
今回の『完全版・人間失格』も、紛れもなくこの構造を持つ芝居であり、観劇していて懐かしさを感じるほど彼らしい作品であったが、それと同時に、これまでの作品と比べてもいくつかの点で遙かに良い出来だと感じられる良作であった。今まで彼が扱ってきたテーマがまさに「人間失格」「失格(破滅)していく人間」だったことを考えても、今回の『完全版・人間失格』は彼の集大成的な作品と言えるのではないだろうか。
具体的にみていこう。
今回の『完全版・人間失格』で優れていた第一の点は、原作「人間失格」を舞台化するのではなく、それを入れ子構造にし、はっきりと批判的に語る”作家”の存在を導入したことだ。この構造が、主人公葉蔵とともに破滅し、または見捨てていく女性たちのあり方や、作中に何度も言及される「世間」という言葉とともに、破滅を客観視する観客の視点を守り、カタルシスの保障を行っている。こうした構造は彼の以前の劇作にもよく見られるが、そのバランスが明らかに良くなっている。
第二の点は、俳優の自発性を重視するアンサンブル的演出である。その境界ははっきりしないが、俳優たちはある瞬間、明らかに演出による操作から離れ、自発的なものに突き動かされるようにして動いている。演出の手繰っている糸が見えなくなるような感触だ。非常に繊細なバランスを要求されることであり、完全に成立しているとは言えないが、そのことによって人物一人一人の存在感がグッと増しているように感じられるのである。
男バージョンで素晴らしい演技を見せた原西氏は、葉蔵という役の持つ破滅の引力を十分に引き出していたが、その破滅の引力と、共演陣の存在感ある演技が引き出す生活者の重力が拮抗し、作品に緊張感のある対立が生まれていた。
第三の点は、円形の劇空間の導入である。この劇空間が葉蔵という破滅の中心とその周辺という構造、緊張感のある対立を可視化している。
また、谷氏はこれまで「語り」という手法によるメタシアトリカルな構造に並々ならぬ関心を示し、今回もその手法を使っているが、今回の円形の構造がそれを非常に自然な形で存在させており、語られるモノと語るモノ、見られるモノと見るモノの共存を可能にしていた。まさに「お客様は『見るリンチ』の共犯者」という宣伝文の通りである。
私がこれらの点を優れていると感じるのは、全てある一つの効果を上げているからである。つまり、破滅へと向かう価値観と、そのカウンター・パートとしての人間のあり方、生活者の価値観のコントラストを明瞭にし、バランスを与えているのである。
以前の谷賢一氏の作品には、作劇の上で、破滅へと向かう価値観に決定的な重さが与えられており、或いは露悪的とも捉えられるような臭いがあった(と私は感じることが多かった)が、その臭いがなくなっている。いや、なくなった訳ではない。より複雑な臭い?になったのである。それは前回の『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』でも感じられた臭いだが、今回よりはっきりと感じられるようになった。これこそが『完全版・人間失格』を良作たらしめているのだと、私は考えている。
最後に、以上のことのまとめとして、彼自身のブログから一文を紹介したい。
”初演・短編版の『人間失格』を翻案していた自分は、完全に失格人間であった自分から、生活者としての真人間に成り変わりつつある境目にいた。今の僕は、どう見ても真人間である。アル中でヤニ中の、ちゃらん村ぽらん太郎くんであることには違いないが、今や妻帯者であり、納税者である。恐ろしい。人間になってしまった。”(PLAYNOTEより)
彼はこう書いている。書いてはいるが、私は、どうも彼は間違っているんじゃないかと思う。
彼は真人間じゃない。少なくとも作劇を見る限りでは。
複雑な香りにはなったが、彼の「人間失格」の臭いは未だ消えずに残っているのだと思う。
そしてそのことが端的に現れているのが、『完全版・人間失格』で最も良かった点、そのラストシーンであろう。
ここに詳しくは書かないが、とても良い終わり方だったと思う。
追記
観劇後、客席からロビーに出ると、すぐ隣にあるプレイルームに遊びに来ているたくさんの子供たちの声が耳に飛び込んできました。観ていた芝居とのあまりの落差に驚き、改めて青山円形劇場、こどもの城の素晴らしさを実感しました。やはり閉館はもったいないですね!