2年前の3月、震災のすぐ後でしたが、『本読み会』の主宰二人でかねてから予定していたロンドン観劇旅行に行きました。
日本から避難しようとしている外国人でいっぱいの飛行機。
連日中継で伝えられるFukushimaの映像。
日本から離れることに複雑な思いを抱えながらの滞在となりましたが、そんな中、非常に記憶に残った芝居の1本がサム・シェパードの「埋められた子供/Buried Child」でした。
(ただ、この芝居は別行動、私大野だけ観にいきました)
劇場は「Upstairs at the Gatehouse」
ロンドン中心部から地下鉄で30分ほどの閑静な住宅街の中にあるパブの二階部分に作られた小劇場で、観客は、開演前後はもちろんのこと、開演中もビールを飲みながら芝居を楽しむ、そんなリラックスした雰囲気の愛すべき劇場です。
肝心の芝居も、さすが演劇の都ロンドン、1500円ほどの料金で観られるとは到底信じられないような出来栄えで、丁寧に作られたセットにも、コントロールされたセリフの訛りにも、サム・シェパードの描くアメリカ西部の田舎の農家がしっかりと表現されています。
私は英語がほとんど理解出来ないので、以前読んだ戯曲の記憶を頼りに何とか筋を追っていくのですが、しばらく観ていると、言語を超えた表現、俳優の肉体から感じられる人間関係、恐怖や性のイメージが鮮烈な印象をもって伝わってきて、イギリス演劇のレベルの高さをまざまざと見せつけられるようでした。
先日開催された第40回『本読み会/サム・シェパード』でも繰り返し話題になったのですが、「埋められた子供」という芝居は非常に謎の多い芝居です。
「ひとりの人間のなかには多くの声がある。多数の異なった人間がいる。」というサム・シェパードの言葉の通り、登場人物たちの語る言葉は互いに矛盾し合うし、時には一人の人物から語られる言葉の中にも大きな矛盾が存在するのです。
『本読み会』では、その多くの声を一つ一つ確認していくように、それぞれの参加者がそれぞれの読み方で「埋められた子供」に向き合っており、それはあたかも「埋められた子供」を掘り返していく作業のようでもありました。
二年前に観た「埋められた子供」の幕間休憩中、私がビールを買って客席に戻ると、隣の席に座っていた老婦人に声をかけられました。とても上品な方で、私に英語が分かるのかと聞いてきます。
「ほとんど分からない」と私が答えると、「でもあなたは私と同じところで笑っている」とニコニコし、そして私が日本人で、祖父母が福島の近くに住んでいることを知ると、彼女は何も言わずに私の手に自分の手を重ねてきたのです。
その後私は「埋められた子供」の最終幕を観ながら、日本から遠く離れたイギリスで、アメリカの芝居を観ているということを考えました。そして「埋められた子供」の土にまみれた死体が掘り返されるラストシーン、舞台に響き渡る老婦人ハリーの言葉を聞いていた時、その言葉が詩となり、舞台に鎮魂の意志があふれ出すのを感じたのです。
今日であの震災から二年が経ちました。
見ず知らずの日本人の手を取ってくれた老婦人に感謝しつつ、亡くなられた方たちの鎮魂を願います。