
気づけば蝉が鳴いています。忙しさにかまけてサボっていたら、文字通り心を失いかけておりました。なんと今年初の『本読み会』です。ちょっと戯曲から目を離すと、半年ってあっという間に過ぎてしまうものですね…。これはいかんと『本読み会』。主宰の松山が劇団イキウメの新作を見て心躍ったこともあり、日本の現代演劇を牽引する前川知大の代表作『散歩する侵略者』を読もうと腰を上げました。
『散歩する侵略者』の初演は2005年にさかのぼります。思ったよりずっと早かった。その後、2007年に今はなき青山円形劇場で再演され、2011年には神奈川、東京、大阪、福岡をツアーする作品へと成長しました。新しいところだと2017年にシアタートラム、大阪ABCホール、北九州芸術劇場で上演された記録があります。イキウメの成長と共に成熟を遂げた代表作と言ってもいいでしょう。
また、2017年には黒澤清監督で映画化もされています。長澤まさみ、松田龍平、長谷川博己、前田敦子など豪華キャストが顔を揃え、国内のみならずカンヌ国際映画祭にも出品される作品となりました。
舞台版も映画版もDVDで入手することができます。私は今回両方を観てみたのですが、演劇でできることと映画でできることがどちらも際立っており、表現手法を見比べるのがとても面白い体験でした。お時間のある方はぜひ。
三日間の行方不明の後、別人格となって発見された加瀬真治。医師の診断は脳の障害とのこと。不仲だった夫の変化に戸惑う妻の鳴海を置いて、真治は毎日散歩に出かける。その後、町に流行り始めたのは、「ある特定の概念を失う」という奇病だった…というSFめいたストーリー。真治をめぐる周囲の人々の視点を借りて、観客は不思議な思いを抱えながら舞台を観ることになりそうです。
ところが、宇宙人が概念を奪うことが劇中で示されると、今度は興味の方向が変わることになります。「家族」「所有」「自他」などの概念を奪われると人はどうなるのか?言葉だけ知っていて、その概念と結びつけられないとはどんな感覚なのか?そもそも概念って何なのか?こうした疑問が積み重なっていき、やがてとても大きな問題へと私達を連れていきます。つまり、「私達は世界をどうやってとらえているのか?」です。SF的な面白さを入口に、いつのまにか哲学的な問いにたどり着いていました。
この構造に気づいてから、参加者の間で話が盛り上がりました。子どもが成長とともに概念を獲得するのに似ているのではないか、とか、外国語に翻訳するときは必ず概念を頭の中で交換しているのではないか、とか、概念を失った人間を演技でどう表現するのがいいんだろうか、とか。普段あたりまえのように生活していること自体が、かなり複雑な行為の集積のように思えてきます。こうなってくると戯曲の読みは面白くなってきます。戯曲に書いてあることをだんだん拡大して話を広げながら、様々な「もし」を遊びのように交換し合う楽しいディスカッションとなりました。
『散歩する侵略者』のラストシーンでは「愛」の概念について描かれます。しかし「愛」は相手から奪ってしまうと成り立たず、誰かと共有することでしか存在することができません。他者と戯曲を読む行為も、相手の概念を想像し、戯曲の言葉を手がかりにそれを共有するという高度な遊戯なのかもしれません。
(松山)







