
うだるような暑さが続きます。戯曲ファンのみなさんお元気でしょうか?
『本読み会』の新企画「日本戯曲で触れる!キリスト教シリーズ」の第一弾は、久しぶりの対面開催となりました。
西洋戯曲を読むとき、必ずといっていいほど「・・・???」となるのが宗教の問題。そこをなんとかお近づきになりたいと思い、日本でキリスト教の戯曲を書いている劇作家はいないものかとあちこち探し回りました。すると、遠藤周作を筆頭に、有島武郎、加藤道夫、井上ひさし…いるいる、こんなに身近にいるではないですか。あとは戯曲が面白ければ言うことなし!
中でも戯曲としての魅力で我々を惹きつけたのが、矢代静一『夜明けに消えた』。早くからキリスト教に強い興味を示していた矢代は、この戯曲を書き上げた翌年に洗礼を受け、正式にクリスチャンとなりました。作中の登場人物「ノッポ」は、いわば矢代の分身です。
そもそも、この戯曲は劇中劇の形式をとっています。とある「男」のもとへ、失踪してしまった奔放なデザイナーの「ノッポ」から送られてきた小包。開けてみると、中には一篇の戯曲が入っています。ページをめくると、観客とともに戯曲内の世界へ入っていくという、ちょっとアングラな構造……。
冒頭、ノッポは神を頭から否定するのですが、妻である「ぐず」とのやり取りを経て、次第に信仰へと目覚めていきます。この過程は矢代自身がキリスト教へ傾倒していく姿と重なるものでしょう。
たとえば作中、ノッポの妻であり敬虔な信者である「ぐず」が火あぶりにされる場面があります。魔女狩りです。火あぶりの直前、「はい、ありがとう」と祈りを捧げるぐずも、いざ火にかけられれば「やめて!苦しい!助けて!」と苦悶の叫びをあげてしまう。火にかけた者たちは、これでぐずの信仰が偽であったと拳を上げる衝撃的なシーンなのですが・・・。
矢代静一が描きたかったのは、ここのところだったのではないかと思うのです。信仰に身を捧げながらも、人間は火にかけられれば苦しみ、声を上げる。神への愛の隙間に、いつしか男女の愛が入り込んでしまう。俗なるものの葛藤や矛盾を認めながら、それでも人間が信仰を必要とする姿を書き上げた戯曲なのではないでしょうか。
戯曲集『夜明けに消えた』の解説で、奥野健男は戯曲と洗礼の関係をこんなふうに推測します。
矢代はその師であった太宰治が、憧れながら怖れ拒否した炉辺の幸福、諸悪の根源とみた家庭の幸福にこそ、永遠の愛と信仰がある、神は罰するものでなく、ゆるす者だとし、その支えとしてカソリックに入ったのではなかろうか(矢代静一戯曲集 解説より)
仏教でいうところの「出家」ではなく、あくまで土着の生活に信仰を見出していく。これが矢代静一のたどり着いた宗教観でした。そして、これは矢代だけに限らず、日本人がキリスト教を目の前にしたとき、ある種の普遍性を含む態度でもあると思うのです。
ラストに近くなると、ノッポは酔っぱらった頭で考えます。
小さき者が……つまり赤ん坊が……目の前で殺されようとしているとき、刃向かわぬ母親がいるだろうか。惚れた女がすぐ目の前で強姦されても、そしらぬふりをしている男はいるだろう。けど、それが小さき者だったら、父親だって、いいや見知らぬ他人だって、必死に戦うに違いねえ。それは、なぜかっていうとだ……どうも、むずかしいな、自分だけの頭で考えるってことは……(矢代静一『夜明けに消えた』より)
ノッポは自分自身と対話しています。自分自身の中に他者を持ったといってもいいでしょう。自分自身の中にいる得体のしれない他者は、やがて大きな存在となり、ひいては神との対話へと昇華されていくものです。この対話という形式は演劇を支えるものであり、さらに劇中劇であることがより演劇性を強める役割を果たしています。『夜明けに消えた』の優れた点は、それが信仰だけの問題にとどまらず、演劇を通して描くことと強く結びついているからなのではないでしょうか。
もっとお堅いかと思われたキリスト教シリーズですが、とてもよいスタートを切ることができました。今後も続く予定ですので、ぜひ一緒に読みにいらしてください。
(松山)