昨年末、久しぶりの対面開催に気を良くした『本読み会』。やっぱり対面だよなと意気込み、いつもの会場を予約したところまではよかったのですが…あれよあれよというまに感染者が爆増し、おとなしくオンライン開催へと逃げ込みました。まったくオミクロンの野郎にも困ったものです。
ジロドゥ『トロイ戦争は起こらない』はその名のとおり、ギリシャ神話を下敷きに描いた傑作戯曲です。エーゲ海を挟んで対立するトロイとギリシャ。その原因は、トロイの王子パリスがギリシャの王妃にして絶世の美女エレーヌをかっさらってきたことでした。そもそも、神々の美女コンテストがこじれたのが発端だったのですが…ともかく、これを火種に10年間に渡るトロイ戦争が勃発します。起こるんです、トロイ戦争。で、この戦争に決着をつけたのが、トロイの木馬でおなじみのオデュッセウスです。ギリシャ神話の英雄たちが次々に登場する豪華な「スピンオフ作品」ですね。
観客の頭の中に既存のイメージがあるとき、劇作家はそれを最大限利用してドラマを組み立てることができます。ヨーロッパの人々にとってギリシャ神話はおなじみの物語。登場人物たちは尊大な神、英雄、美女、あるいは悲劇のヒロインなどなど、強いイメージを持って舞台に登場することでしょう。いや、舞台に出てくる前から観客は「あの神はああいう人(?)」、「この英雄はこういうキャラクター」と期待することができる。ジロドゥはこの期待にうまく応えながら、そして見事に裏切りながら魅力的な登場人物を作り上げます。
ジロドゥによって劇画化されたギリシャの物語は、戦争直前だというのにどこかコミカルに進行します。敵国を罵る歌を作ったかと思えば、コントのような劇中劇が挿入されたりもします。喜劇化しているというより、これはジロドゥ流の風刺劇なのですね。有事の際というのは、普段では考えられない冗談のような本当の話が次々に巻き起こります。御用学者が事実を曲げて都合のいい解釈を謳ったり、詩人があっというまに身を翻して転向したり。トロイ戦争を通じて、人間が国家という集団に飲み込まれて、次第に個人の意志を失っていく様を描いているかのようです。
それもそのはず。『トロイ戦争は起こらない』の初演は1935年。ヨーロッパを火の海に包んだ第一次世界大戦が終わってまもなく、今まさに第二次世界大戦の火蓋が切って落とされようとする時代です。ジロドゥは1939年にフランス情報局総裁に就任し、ラジオを通じてドイツとの激しい情報戦を繰り広げました。ジロドゥが劇作家としての地位を築いていく時期と併行して、フランスには強大なドイツの影が忍び寄っていたのです。まるでトロイに襲いかかるギリシャのように。
ジロドゥは終幕ちかく、オデュッセウスにこんな台詞を語らせています。
戦争を望んではいない。ただわたしには、戦争というやつが何を考えているのか、そいつがはっきりしない。
個人の意志や欲求を超えて、なにか戦争という大きな機構が人々をどこかへ運んでいってしまうかのようです。トロイ戦争はエレーヌがさらわれたことに端を発しますが、そこにエレーヌの意志はなかったのでしょうか。私には、絶世の美女であるエレーヌが戦争を擬人化した存在に思えてなりません。
10年続いたトロイ戦争も大変ですが、オンラインで4時間読み続けるというのはなかなかハードなものでした。しかし、もっと長い戯曲を読んでいるグループもあると聞きますし、慣れの問題なんですかね、これは…。もうしばらくオミクロンをやり過ごさなければならないのなら、われわれもトロイの木馬に息を潜めて反撃のチャンスをうかがいたいものです。またのご参加をお待ちしております!
(松山)
・『本読み会』新聞リーダーズ2020/2021
・特別企画「オリンピックイヤーだよ!ギリシャ劇集合」特集ページ
・「古代ギリシャ劇について」