先日、KAATにてKUNIO『グリークス』を観てきた。『グリークス』という作品をご存知だろうか。イギリスの演出家ジョン・バートンと脚本家ケネス・カヴァンダーが、ギリシャ古典劇を代表する10作品をコンパクトに再構成した連作戯曲だ。ギリシャ劇の面白さをギュッと詰め込んだ傑作なのだが、総上演時間がなんと9時間というハードな芝居で、これはなかなか上演できるものではない。だから、今回KAATで上演されると聞いた際は、本当に嬉しく思った。これを逃せば次はいつ観られるか分からない。企画を立ち上げ、上演までこぎつけた関係者の熱意と体力(!)に感謝したい。
私が初めてこの芝居に触れたのは今から20年ほど前、蜷川幸雄氏演出による上演だ。と言っても、上演を生で観たわけではなく、たしかNHK衛星放送だったと思うが、放映された劇場中継をVHS四本に分けて録画し、それを観た。映像で触れただけではあるが、これは本当に優れた上演で、自分は文字通りテープが擦り切れるまで繰り返し観た。戯曲も購入した。私がニナガワカンパニーに入団する前年の上演だったのだが、なぜ観にいかなかったのだろうか!と(まあ、お金がなかったのだが)、今でも心の底から後悔している作品である。
さて、今回のKUNIOによる『グリークス』上演、上記のような事情もあるし、好きな役者さんも多く出演しているしで、当然期待して観にいったのだが、実は結果から言うと、満足な体験にはならなかった。私が求めていたものとは違うな、と感じた。ただ、Twitterなど覗いてみると総じて好評のようなので、これは単に私の見方が時代遅れなのかもしれない。今回こうして感想を書くにあたっても、わざわざ私が辛口の感想を書く必要もないだろうとは思ったのだが、マジョリティに対するカウンターパートとして、少数派の感想を書いておくことも必要かもと思い直した。『グリークス』やギリシャ古典劇を、いろんな見方で楽しんでくれる人が増えたらと思う。
今回の上演、私が総じて感じたのは、芝居全体での“葛藤を抱える力 ”の弱さだった。ギリシャ劇では、登場人物の多くが選択を迫られる。それは例えば、“名誉を取るか、愛を取るか”というような選択であったり、また例えば、“屈辱を受け入れてでも生き抜いていくべきか、否か”というような選択であったりするが、どの選択も、自分の全存在をかけた重さのある選択で、その過程にギリシャ劇ならではの大きな物語、葛藤が展開される。
私は、この大きな葛藤こそがギリシャ劇の見どころ、醍醐味だと考えているのだが、今回の上演では、この葛藤が、残念ながら届いてこなかった。今回の上演では、多くの場面に“現代的な演出”が施されていて、Twitterなどでもその辺りは話題になり、評価されているようだったが、私は、こうした演出が、登場人物の葛藤を観客に感じさせるために必要な、“苦しい状態に耐え続けること”を阻害してしまっていたのではないかと思うのだ。
例えば、『グリークス』10作の中でも屈指の傑作である、3作目『トロイアの女たち』(エウリピデス作)では、国も家族も、全てを奪われた敗戦国の女たちが、さらに未来をも奪われつつある状況の中で、嘆き、どう生きていくべきかと葛藤する様が描かれる。ここでは、「トロイア」という国だけでなく、人類がこれまでの歴史の中で繰り返し経験してきた苦しみが、女達の言葉に託されてドラマチックに提示されるのだが、今回の上演では、そうした彼女らの言葉の一部がラップで表現されていた。ラップを表現方法とすること自体は悪いことでもなんでもないし、全て古典的な表現方法に倣うべきだと言いたいわけでもないが、トロイアの女たちの苦しさを表現するために、本当にこれが最善の方法だったのだろうかと感じてしまった。このように感じる表現は、その他の場面にも散見された。
そうでない場面ももちろんあった。例えば2作目『アキレウス』(ホメロス作)で、藤井咲有里演じるブリセイスが、パトロクロスの死を悼むセリフや、7作目『ヘレネ』(エウリピデス作)で、外山誠二演じる老兵が発する、トロイア戦争の虚しさに対する悲痛な怒りの声などは、何の奇も衒わず、俳優の芝居だけで舞台に乗せられていたのだが、これらの表現は素晴らしかった。彼らの抱える悲しみ、苦しさ、迷いなどがこちらに流れ込んでくるようで、こういうやり方の方がずっといいのに、と感じた。
私が思うに、ギリシャ劇の葛藤を表現するのに必要なのは、俳優が劇中の“苦しい状態に耐え続けながら”言葉を発することであり、それを支えるための劇構造なのだ。今回の上演では、演出の用意した数々の仕掛けが、観客の興味をひく点では機能したかもしれないが、俳優が“苦しい状態に耐え続ける”ことについては障害になってしまっていたように思う。
また、コロス(合唱隊)のあり方にも、多少残念な思いを持った。これも変わり映えのしない伝統的な考え方ではあるが、私は、そもそもギリシャ劇におけるコロスの役割は、神や高貴な人物が表現する大きな物語(葛藤)を、“観客と一緒に観る”ことにあると思っている。高貴な人物が嘆き、葛藤し、破滅していく様=大きな物語を、ある時は同じ舞台上の登場人物として支え、ある時は観客と同じ視線で驚き、感嘆し、慄く。物語の中と外とに半身ずつ身を置いて、物語と観客の橋渡しをする役割がコロスなのだと考えているのだが、今回の上演では、そうした構図を示すにもってこいの舞台機構(舞台面が階段状の段差で取り囲まれており、俳優たちは一段下がった周辺部に降りることもできる)が、活用されていなかったと思う。
『グリークス』におけるコロスは、ギリシャ古典劇本来のコロスのあり方とは描かれ方が変わっているので、それも考慮する必要はあるだろうが、コロスたちがあの階段を降り、観客と一緒に舞台上で展開される物語に視線を向けて、観客の代わりとなって言葉を発してくれる場面があっても良かったのではないかと思う。
以上、要するに、私はもっとずっと大きな葛藤が表現されるのを観たかったのだと思う。KUNIO『グリークス』の登場人物たちは、神話や古典の登場人物にしては、スケールが小さかった。私は臨床心理を生業にしていて、“正しく葛藤を抱えること”をとても重要だと考えているので、余計そう感じたのかもしれない。或いは、時間をかけることや、遠回りすること、耐えることといった、葛藤を抱える力が弱くなっている現代においては、今回の上演が時代性を持つのかもしれない。
この文章は辛口になったが、観劇できたこと、多くの観客がこの上演を楽しんだことは良かったと思っている。私は、このところ古典劇の上演が増えてきているような気がしていて、そのことがとても嬉しい。これは世の中に大きな物語が必要とされてきていることの表れなんじゃないだろうか、、、などと考えているのだが、果たしてどうだろうか。今回の上演を通して、ギリシャ古典劇の魅力、大きな葛藤を味わおうという人達が増えることを期待している。(大野)
戯曲に興味のある方はこちらご覧ください。高いですけど・・・。
『グリークス―10本のギリシャ劇によるひとつの物語』(劇書房)
12月14日の第83回『本読み会/マーティン・マクドナー』へのご参加もお待ちしております!