『本読み会』で寺山修司を扱うのは、実に12年ぶり。第20回で『犬神』を読んで以来です(ちなみに、『犬神』はラジオドラマ用の脚本)。私は大学在学中から寺山が好きで、1年の夏には、エッセイ『家出のすすめ』を携え、自転車旅行に出たりもしてます。ちょっと恥ずかしい。『本読み会』でも、また読みたいという気持ちはずっと持っていたんですが、なんとなく先延ばしにしていたところ、今夏、青森は三沢にある「寺山修司記念館」を訪れる機会があり、このタイミングを逃すべきではない!と、開催を決めました。
結果、私にとっては寺山修司と出会い直す貴重な機会となりました。今回は、仕事で遅れて参加した松山に代わり、私が進行を担当し、このレポートも私が書いています。レポートというよりは、感じたこと考えたことをつらつらと書き連ねた文章になりましたが、私の感動を少しでもお裾分けできれば幸いです。
・後期作品を読む不安
今回は、『毛皮のマリー』『疫病流行記』という二つの作品を読みました。寺山の戯曲は、テキストとしては比較的短めのものが多いので、二作読めちゃうんです。作品選び、一作目の『毛皮のマリー』は、これはすぐに決まりました。なんと言っても寺山戯曲を代表する作品ですし、ストーリーラインがはっきりしている初期作品は、きっと参加者にも喜ばれるに違いない!という考えです。
が、残るもう一作、これを決めるのが難しかった。せっかく2作品を読むのだから、趣の変わる後期作品も読みたい・・・んですが、寺山後期の作品は、非常に実験的で、ストーリーもあってないようなものばかり。正直、読んでいてよく分からない笑。そんな作品を選んで、参加者が置いてけぼりにならないだろうか・・・という葛藤です。
だいぶ迷った挙句、結局はまあ主宰の特権、自分の読みたいものを読めばいいや!と、後期作品から『疫病流行記』を選択したんですが、選んだ後も不安が残ります。
寺山自身による「作品解題」によると、『疫病流行記』は海外公演の際、「言葉のない演劇」として上演されたそう。なんと、すべてのセリフが、金槌で釘を打つ行為に「翻訳」され、すべて釘打ちの音、ひびき、動作によって伝達表現されるように改められたというのです。「言葉から意味を持つ修辞性を剥奪し、演劇を文学から独立させようという意図」とのことで、ますます、“戯曲の読書会”である『本読み会』には、不向きな作品であるような気がしてきました笑。
せめて参加者が持ち帰るものが少しでも増えますようにと、当日二作品を読む合間に、天井桟敷公演の録音音源(『邪宗門』『身毒丸』『阿呆船』などの録音CDが市販されている)を聞く時間を設けることにしました。ちょっと保険をかけた訳ですね。
・本読みの醍醐味
ところが、です。当日実際に読んでみると、私の懸念がいかに莫迦げたものだったかが、よく分かりました。寺山戯曲が本読みに不向きだなんてことは全くなく、むしろ、これこそ『本読み会』で扱うべき戯曲じゃぁないか!と目からウロコが落ちた感じです。
特に、懸念していた『疫病流行記』。合間に録音を聞いたことも影響したのでしょうか、参加者の皆さん、軽やかに台詞で遊んでいるのがよく分かります。言葉が踊っている。「寺山戯曲は、読むものではなく、体験するためのもの」という評をどこかで読みましたが、言葉に想像力が乗り、楽しんで台詞が語られると、そこにイメージがあふれ出してくるんですね。
参加者からも、「1人で読んでた時よりずっと面白かった」と感想が出ていて、何のことはない、「机に向かって黙読するのではなく、実際に声に出して台詞をかけ合ったとき、戯曲は本当の姿を見せるのです」という、『本読み会』の宣伝文句通りの展開になっておりました。“良い戯曲を選べば、本読みは必ず楽しめる”と分かっていたはずなのに・・・。寺山さん、大変失礼いたしました!
・しかし寺山の言葉はやはり良い
もともと歌人・詩人としてそのキャリアをスタートさせた寺山修司。その言葉はやはり見事でした。特に『疫病流行期』のラスト、「魔痢子を演じる俳優」や「米男」の台詞、そしてト書きには、寺山修司渾身の詩が込められていて、聞いていて感動を覚えました。本当はたくさん紹介したいのですが、戯曲の、本当に最後の部分だけ、引用させていただきます。
米男 ちぇッ!手がつめたいよ。よいしょッ、と。エンジンの調子は、どうかな?南、南、南、と南をめざして地球を一回転すりゃ、何のこたあない、ふり出しに戻るだけだ。この世で一番遠い場所もまた、自分自身の心臓だもんな。さあ、麦男。いくぞ。めくらの南、ありもしない未開の天地。至福千年、王国一夜だ。さあ水をあけろ。かもめは邪魔だ!沖はくらいし、羅針盤も失くしちまった。よいしょッ!(引いて)神を殺して、仏を売って、何の南があるものか。地獄。煉獄。水しぶき。歴史を書くのは右の手で、舵をとるのは左手だ!
寺山修司『疫病流行記』より
すばらしい勢いでエンジンがまわりだす。
米男 心臓だ!心臓だ!まわったぞ!(哄笑する)麦男!おれたちは、堕ちてゆくぞ。まっくらの南の底へ!時は今だ!時は今だ!
以下は、その日、その日の米男を演じる俳優自身のことばとなってゆく。
エンジンの音と共に、すべての窓がひらき、劇場外の夜景が、この劇の装置、巨大な無人島として全貌を現す。すべての俳優はゆっくりと立ち上がる。彼らの手には、釘と金槌。壁がもし、彼らの現実原則であるならば、打ち込む釘こそは、彼らの「ことば」であるだろう。
これで、終幕です。言葉を通して、イメージが「伝染」してくるかのよう。本当に見事です。海外公演では、これらの台詞をすべてカットして、「釘を打つ行為」に「翻訳」したと言うのですから、驚きます。
詩人寺山にとって、言葉を手放し、行為に表現を委ねることには、どんな意味があったのでしょう。そもそも寺山は、天井桟敷を旗揚げする際、“見せ物の復権”を掲げ、メンバー募集のために、「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」という広告を出しています。アングラ全盛の時代の流れもあるでしょうが、これは“身体”を重んじる姿勢の表れ。寺山にとって、詩の世界から演劇の世界に飛び込むことは、「言葉」に、「肉体」と「行為」を与える手段だったのかもしれません。
寺山は、イメージを他者に伝えようとする時、一つの媒体・手段に拘ることはありませんでした。詩でも、演劇でも、映画でも。それは言葉であってもいいし、または釘を打つ音でもあり得たのでしょう。
さて、以上でこのレポートは終わりです。レポートを私が書いた代わりに、いつも私が描いている劇作家イラストは、松山画伯にお願いしました。“和田誠風”だそうです笑。
それでは、また!
(大野)