「特権的肉体」という言葉がある。唐十郎の作った概念である。私がこの言葉について考えるとき、いつもサミュエル・ベケットの作品の登場人物を思い浮かべる。ロッキングチェアに自分を縛りつけたマーフィ、とんでもない姿勢で自転車に乗るモロイ、道端で靴を脱ごうとしているエストラゴン……。
一般にまったく誤解されているが、唐の「特権的肉体」とは、何か特殊な俳優の身体のことではなく、フィクションの登場人物の形象のことである。フィクションの中に強烈な人物の像が作り出されたとき、読者や観客はその作品に取り憑かれる。ベケットの作品の多くは、まさにそのような「特権的肉体」を創造し、提示しているのだ。
『しあわせな日々』にも、きわめて独特な「特権的肉体」が登場する。焼けただれた草原の中の円丘に埋もれた女ウィニーである。第一幕では腰の上まで、第二幕では首までうずもれている。その状態で彼女は、聞いてもらえているかも定かでないおしゃべりをしながら、一日の時間をつぶさねばならない。
ベケットの作る「特権的肉体」は、「目的」を剥奪された人間の姿なのかもしれない。正確にいえば、「目的」という幻想をもちえなくなった人間の姿、といったところか。
たとえば、『ゴドーを待ちながら』のヴラジーミルとエストラゴンは、ゴドーを待っているのではない。何の「目的」ももてないままそこに存在しなければならないという事態に、「ゴドーを待つ」という口実が与えられているだけの話だ。
同じようにウィニーは、何の「目的」もない時間にただ耐えねばならない。耐えるために彼女はしゃべる。間をあけすぎてもいけないし、一気にしゃべりすぎてもいけない。ウィニーにとって言葉は消耗品なのだ。「一日分の言葉をむだづかいしちゃだめよ」。
「目的」をもたないウィニーは、しかし、「欲望」をもっている。自分の言葉をパートナーのウィリーに聞いてもらいたいという「欲望」である。自分の言葉に、ほんの一言ウィリーが返事をくれたとき、ウィニーは「ああ今日はしあわせな日だわ!」と喜ぶ。何というアイロニーだろう。
ベケットの登場人物たちは窮極的に滑稽であり、窮極的に悲惨である。そしてこの滑稽さと悲惨さの入り混じった人物像は、消えることのない傷のように、私たちの心に刻みつけられる。私たちが小説を読むのも演劇を観るのも、そのような傷を増やすためではないだろうか。
(清末浩平)
しあわせな日々・芝居 (ベスト・オブ・ベケット)
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寄稿者紹介
清末浩平
2011年に引退した劇作家。劇団サーカス劇場『幽霊船』、ピーチャム・カンパニー『復活』など。
ブログ「documents」(文学・演劇の研究・批評)
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