梅雨特有の不安定な天気。台詞も聞こえなくなるほどの落雷に襲われながらも、『本読み会』はページをめくり続けました。48回目の今日は、まさに稲妻のように旧時代を切り裂いた新歌舞伎の旗手、岡本綺堂の『修善寺物語』。歌舞伎だけでなく、新派、新劇、そして映像までも幅広く作品化されている綺堂の代表作に、恐れ知らずの『本読み会』が挑戦しました。
「新歌舞伎」というのは、日本が文明開化をくぐり抜けるときに登場した新しいスタイルの歌舞伎。歌舞伎特有の荒唐無稽な筋立て、見せ場、スター主義はそのままに、西洋戯曲の持つ細やかな心理描写を歌舞伎台本にも取り入れようとする試みでした。『修善寺物語』でいうと、実の娘が死にかけているのに、親父が「おまえが死ぬときの顔をデッサンしたいから紙と筆を持ってこい」なんて、どう考えてもめちゃくちゃな話です。しかもそれがラストシーン。しかしそこに至るまでのやり取りは、駆け引きや腹の探り合いを含む大人の対話。
こっちは専門家もいないし、少なくとも古典歌舞伎よりは言葉もなじみやすいから、これなら素人の我々にもよかろうと甘く考えていたのが火事を呼びましたね。今回ほど「文字を読む」のに苦労した回はありません。同じ日本語なのに、たかだか100年前の言葉を発するのはこうも苦戦するものなのか、と。一行ごとに、いかに私たちの日本語がなまっていたのか痛感させられます。初めて台本を読むとき、つっかえつっかえになる、あの懐かしい感じ。450年前書かれたシェイクスピアはすらすら読んでいたのに、不思議なもんです。黙読のときはわりとすらすら読めるのですが、声に出すとたちまち暴かれてしまうのが恐ろしいところ。
ただ、読み進めていくにつれて少しずつリズムがつかめてくるものまた一興。私たちの身体に刻まれていた五七調のDNAが、綺堂の台詞によって徐々に呼び起こされてくるようです。時間をかけて読んでいく中で、文体と身体がシンクロしてくる感覚は『本読み会』の醍醐味。声も身体の一部なんです。
喉元を過ぎた頃に、また性懲りもなく歌舞伎台本にチャレンジするやもしれませぬぞ。
(松山)