王子小劇場、野生児童『1980'』を30日夜に拝見した。大変な盛況ぶり、私の目にする範囲では評判も上々のようだったが、私はどうも趣味に合わなかった。
物語は、大事故で家族を亡くしたある一家を描いたものだったが、喪失やアイデンティティ(この一家の母は台湾出身である)といったテーマはしっかりと扱われた印象はなく、ただセンセーショナルな展開を追ったもののように感じられた。
劇中、事故被害者の心のケアを担当するカウンセラーの男が登場する。そのカウンセラーの男は、子を亡くした家族と、親を亡くした家族に、お互いを亡くなったものの代わりにして一つの家族として生きるよう提案をする。その事実が明かされる物語の終盤が、劇のクライマックスに設定されている。
あのカウンセラーの男は、一体何が目的で、ああいった行為を行ったのか。劇作家は、何を目的に、ああいった筋書きを用意したのか。あの物語がフィクションであるということは十分承知しているのだが、臨床心理士をしている私には、あまりにも荒唐無稽だと感じられたし、それ以上に、不快感を覚えてしまった。あの、治療とは決して呼べない行為は、亡くなった方を存在しなかったものにすることと同義であると思う。一時の安寧の為であっても、亡くなった家族の存在から目を背けるのではなく、家族を喪った事実に向き合い、それを受け入れていく過程に寄り添おうとするのが、心理臨床の思想であろう。劇作の有田さんが、どういった事故に取材を行い、そこから何を思ってあの物語を紡いだのか、それは私には分からないが、あのような荒唐無稽な内容を描くことに何か意味があったのだろうか。そしてその荒唐無稽な行為に「カウンセリング」という言葉が用いられたことに、私は不快感を覚えた。
これは邪推に過ぎないが、私には、PTSDやカウンセリングというものが、ただドラマチックであるという理由で、ドラマを作る材料として用いられていたように感じられた。話は少し逸れるが、私は、テレビドラマのサスペンスのように、殺される為だけに用意されたような人物描写は好まない。作者の都合で登場し、退場する人物を見ると痛ましい気持ちになる。上質なフィクションを見たことがある方なら分かると思うが、フィクションの人物にも、実在の人間と同じだけの重さが感じられるものだ。そこには魂がある。だからこそ、登場人物は、愛されなければならない。特に作家はその責任を持っているのではないだろうか。
話を戻そう。有田さんは、あの家族たちに、あのカウンセラーに、その責任を持って劇作を行っていただろうか。あの理不尽な筋書きを彼らに与えたのは、何を生み出そうとしていたからなのだろうか。その疑問に劇中でしっかりと答えてもらいたかったが、それは私には感じられなかった。
(大野遙)