『TUSK TUSK』劇評

あうるすぽっとで上演していた(2015年12月10〜13日)『TUSK TUSK』を12日夜に観てきた。ネグレクト(育児放棄)を題材としたイギリスの新進劇作家ポリー・ステナムの作品を、小田島恒志・小田島則子が翻訳し、谷賢一が演出した意欲作である。



先に述べておくが、私は『本読み会』主宰として演劇の世界にも半分身を置いているが、本職は心理士として児童養護施設に勤務している。ネグレクトを含む児童虐待は身近な話題であり、今作の観劇も、ただ演劇を鑑賞するということ以上の体験であった。この文章も、劇評というより、一個人の感想といった性格の方が強くなっているかもしれない。その辺りを踏まえて読んでいただければと思う。

まずは話の筋を説明しよう。舞台になるのは、ロンドンのとあるアパートの一室だ。そこにある兄弟が生活している。15歳の長男エリオット、14歳の妹マギー、そして7歳の弟フィンの3人である。(ちなみに、この作品では冒頭に、彼らを「実年齢の近い俳優が演じるように」という指示があるらしい。谷演出はこの指示を忠実に守り、エリオット役に16歳の太田啓斗を、14歳の妹マギー役に14歳の春名風花を、7歳の末弟フィン役に9歳の渡邊心をそれぞれ配役している。これには功罪両面があったが、私はこの配役を好意的に受け取った。)どうやら彼らの保護者であった母は、数日前から行方不明になっているらしい。彼らは母の帰りを待ちわびているが、一向に母は帰らない。時に強がり、時に言い争い、遊びながら生活を続ける彼らだが、日に日に切迫していく状況の中で、徐々に彼らの絶望的な苦しさが露わになっていく。

さて、今回の芝居を観ながら、私は「想像力」という問題について考えていた。これはどんなテーマの芝居を作るにしても最終的には同じことなのかもしれないが、児童虐待のようなテーマを扱った芝居には、特に言えることだろうと思う。つまり、描かれる物語について(そこで描かれるリアリティについて)、作り手や観客が、それをどこまでリアルに想像できるのか、という問題である。
児童虐待は、恋や挫折など、誰もが経験するような日常茶飯の出来事ではない。それは、この世の現実として確実に(そして思っているよりも身近に)存在しているにも関わらず、大部分の人間が共感できない場所にある。それは常に、隣の家のドアの向こうの出来事だというのが、大半の人間の現実だろう。そのドアの向こうを経験したことのない人間には、これを想像するしかないのだが、ここで「想像力」という問題が出てくる。

果たして彼らの経験を想像することは本当に可能なのだろうか、という問題である。

それは、児童虐待について勉強したら想像できるのだろうか?それとも、虐待を受けた人間に関わっていたら可能なのだろうか?同じ子供でなければ想像できないのか、逆に大人にならなければ想像できないものなのだろうか。そもそも、もし自分に虐待の経験があったとして、それで他者の経験についてまで想像することなどできるのだろうか・・・。
そう考えると、結局、他人のことなどどこまでいっても理解できない、というのが答えなのかもしれない。しかし、作り手は、その可能性にかけて作品を作るのだろう。児童虐待というような、大部分の人間が共感できない物語を語る者は、被虐待児の生活を、彼らの内面を、つまり彼らの生きる世界そのものを観客に提示し、それをリアルに想像させるのが使命となるのではないだろうか。

横道が長くなったが、今回の上演に話を戻そう。今回上演された『TUSK TUSK』について、作り手は、子供たちの世界をどれほど私に伝えてくれたか。私は、作り手たちの健闘を非常に評価している。子供たちの世界の幾分かは確実に伝わってきた。だが、それでも子供たちの想像を絶する世界をまざまざと感じさせるには、惜しくも及ばなかったのではないか、というのが私の感想である。彼らの生きる世界は、もっと生々しく、醜悪なものではないだろうか。おそらく多くの観客はそうは感じないだろうと思うが、今回の上演で描かれた子供たちは美しすぎたのではないかと私は思う。

例えばそれは性描写である。劇の途中、エリオットは街で知り合ったキャシーという女の子と性行為を行おうとする。だが、それをマギーが邪魔する。マギーは、切迫した状況から逃避するかのように女にうつつを抜かす兄に対して怒りをぶつけるが、それはただの怒りではない。これは嫉妬なのだ。この兄妹は、その行為がどのようなものであるかはこの際問わないが、明らかに性的な関係を持っている(マギーが兄に対して誘う「猿の蚤取り」の遊びなどにも、それは示されている)。今回の上演でも、そうした性的なニュアンスは表現されていたが、それは兄妹愛の一種として理解可能な範囲を超えていなかったように思う。だが、そうした抑制された表現では、母親、父親機能の失われた家の中で、夫婦のようにして幼い弟を育ててこざるを得なかった彼らの追い詰められた生活は存分に表現されないのではないか。母の香水をつけたマギーの胸にエリオットが顔を埋めるシーンに、夫婦の性の営みを容易に連想させるだけのエロスがあればこそ、男性である兄に依存していたい母そっくりなマギーのあり方や、責任から逃れ、美化された母親の愛情の中に逃げ込んでいたいエリオットのあり方が示されるのだ。今回の上演では、彼らは少し美しすぎたと思う。

また、例えばそれは暴力と支配の描写である。劇中エリオットが約束を破ったフィンを問い詰め、暴力を奮うシーンがある。が、それはもっと嫌悪感を催すものでなければならなかっただろう。エリオットは、フィンに対して、つい手を出してしまったのではない。彼は、確かに、そこに喜びを感じていたはずなのだ。彼らはこれまで、自身の生活を、自分の命を、思い通りにできたことはなかった。だからこそ、弱い存在を支配することに喜びを感じるのではないだろうか。自身の中に母を弄んだ男たちと同じような暴力性があることを自覚するからこそ、暴力の後でエリオットは激しく自己嫌悪をする。本当は母を犯した男たちを、もしかしたら母自身を殴りたいのかもしれない。さらに言えば、そうした暴力性は幼いフィンの中にも確実に宿っているのだ。そうした兄弟のあり方が存分に表現されていたかというと、今回の上演では、彼らは美しすぎたと思う。

彼らは美しすぎた、つまり、子供が子供のままでいさせてもらえない虐待の世界を描くには、俳優たちが子供らしくあり過ぎたのではないか、というのが私の感想だ。では、実年齢に近い配役が失敗したのかというと、そうとも思わない。先にも述べたように、私はこの配役を評価しているのだ。というのも、あの兄妹たちは、それでもやはり子供であり、美しさを持っているからだ。エリオットの母についてのファンタジーや不安、マギーの兄に対する想いは、実年齢に近い俳優が持つまっすぐなセリフの中にしっかりと表現されており、それははっきりと伝わってきた。あのまっすぐな美しさ、家族の関係しか目に入らないような世界の狭さは、あの年齢の俳優だからこそ表現しえたものだと思う。私は『TUSK TUSK』という戯曲を読んでいないのでいい加減なことを言うようだが、この戯曲は、彼ら兄妹の美しさと醜さを同時に描いた作品なのだろうと思う。これはとても難しいことだ。今回の上演では、遊びや空想の中の美しい世界が、醜い現実を押しのけて作品全体に溢れ出してしまっていたと思う。

最後に改めて言っておくが、今回の上演を私は評価している。非常に意欲的で、良い芝居だった。この芝居を観た方が、虐待や社会的養護の世界に興味を持ってくれることを切に願っている。
今回は考えがうまくまとめられず、本当にわかりにくい文章になってしまった。最後までこの長文を読んでくださり、どうもありがとうございました。
(大野)

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