ピーター・ブルックの新作『Battlefield』は、退屈な詩の朗読であったのか?
昨日(11/29)、新国立劇場中劇場で上演されていたピーター・ブルックの新作『Battlefield』の千秋楽を観てきた。ピーター・ブルックと言えば、言わずと知れた演劇界の巨匠だ。私は彼の演劇を生で観るのは初めてだったので、劇場に入る前からワクワクドキドキ、期待に胸を膨らませての観劇だった。劇場に入ると、舞台の上に見えたのは、(ほとんど)何もない空間。あるのは二つの箱と、布、それに打楽器(ジャンベ)が一つと椅子だけだった。舞台の床はほぼ全面赤茶色に塗られているが、ちょうど舞台前面、舞台のキワから同色の布が垂れ下がっており、舞台に一枚の大きな布が敷かれているように見える演出だ。「ホントに『何もない空間』でやるんだなー」と、妙に感心した。
さて、開演時間になる。物語は、大きな戦いの後、勝利を手にした王ユディシュティラが、後悔と罪悪感を覚えるところから始まる。彼は大量殺戮の果ての勝利に疑問を感じたのだ。しかも殺した相手の中には、実の兄弟がいたことも判明する。「この勝利は敗北だ」。彼は地位も名誉も捨てて森に篭って生活をしようとするが、母と叔父である前王に止められる。
さて、正直に言うと、私はここまでこの芝居を観ていて、少なからず戸惑いを感じていた。叙事詩『マハーバーラタ』から題材をとったこの芝居は、非常に静かに、淡々と演じられた。少し動きをつけた詩の朗読、というような雰囲気があり、言ってしまえば、非常に退屈を感じたのだ。私が見たいのは舞台上に起きるドラマであって、動きに乗せたテキストの朗読ではない!そう感じていた。私の周りには、ゆらりゆらりと舟をこぐ観客の姿も見受けられた。
だが、巨匠の作品は、紛れもなく巨匠の作品だった。私はその後すぐに、この芝居が単なる詩の朗読ではないということに気づかされる。
物語は、ユディシュティラが自身のこれまでの行為の意味とこれからの生き方の指針を探り、様々な人々に話を聞いていく展開となる。まず最初に語られたのは、彼の父であるダルマが鳩と鷹に正義を試されたエピソードだ。ここで俳優たちは、床に落ちていた布を纏うことで、今まさに語られようとしているダルマや鳩を演じ始める。つまり、劇中劇の構造が立ち上がるのである。
ここからだ。ここから急にドラマが生き生きと動き始めた。布を纏い、あるいは脱ぎながら、役を取り替え演じていく俳優たちは、ダルマのエピソードに続き、死を前にしながらも生に執着する男のエピソード、そのエピソードに共感しながら死んでいくミミズのエピソードなど、流れるようにイメージを展開していく。芝居の中で物語が語られ、さらにその物語の中でまた別の物語が語られる。そうか、彼らは入れ子構造になった寓話的イメージの連鎖の中から、何かメッセージを伝えようとしているのだ。私はようやくこの劇の構造を理解し、そのメッセージを捉えることに集中し始める。すでに眠気は消えてなくなり、物語に引き込まれ、あとは終演まであっという間だった。圧巻だったのは、最後に語られるマーカンディアと少年のエピソードだ。あらゆる破壊と悲しみや絶望(つまりは死)の繰り返しを示唆しながらも、同時に生と喜びの繰り返しも連想させる、広がりのあるエピソードであった。
この芝居は、ただの詩の朗読ではなかった。土取利行が芝居の間ずっと刻み続けたジャンベの見事なリズムと同じく、俳優たちの技術は素晴らしいものだった。一見淡々とした彼らの語り口も、よく聞けば、丁寧にリズムが整えられたものであることが分かる。これは、叙事詩であり神話であるマハーバーラタという物語を語るためのリズムなのだ。
私はよく想像(夢想)するのだが、人類の最初の演劇というのは、原始時代の狩人たちが、夜の焚火の周りで、女たちに対して昼間の自分たちの狩りでの活躍を演じてみせたのが始まりではないだろうか。そのうち狩りで活躍した本人よりも、それを上手に演じるヤツがきっと出てくる。狩られた動物を魅力たっぷりに演じるヤツも出てくるだろう。俳優の誕生だ。演じるということは、そうやって始まっていったのではないかと、私は想像している。
『Battlefield』は、そうした原初的な演劇のあり方を感じさせる劇だった。人々が集い、ジャンベのリズムに乗せて、神と人と動物の寓話を演じる。これこそが「物語り」という行為の本質ではないだろうか。すべてのエピソードを語り終えた俳優たちが舞台に座り、ジャンベの響きに耳を傾けるラストシーンには、演者と観客とで場を共有する喜びが感じられた。私はこの物語りに強い感銘を受け、終演後には、できることならこの芝居をもう一度観たいと強く感じた。
さて最後に、今回の上演について、何点か批判的に述べて終わりとしたい。
今回の上演、私は非常に楽しむことができたが、最初の15分ほどを退屈して過ごしたのは確かだ。これは致命的な弱点だと思う。もしあそこで寝てしまっていたら、私はこの芝居の良さを理解することなく観劇を終えていただろう。上演の始まりから、芝居の構造をしっかり見せてくれるような演出が欲しかった。
また、私は、今回の芝居には新国立劇場中劇場は広過ぎたのではないかと考えている。私はちょうど半分より少し前くらいの列で観劇していたのだが、焚火を囲むような生々しい体験を得るには、ギリギリの距離だっただろう。後方の座席の観客は、もっとしんどい体験をしたのではないかと想像している。薪能からの連想もあるが、それこそ、能楽堂のような規模の劇場で上演されていたら、この劇の魅力はもっと引き出されていたのではないだろうか。
以上、劇評を名乗るには余りに主観的、不勉強を露呈する文章であったが、『Battlefield』について書くのを終わりにしたいと思う。ピーター・ブルックについては彼の著作数冊を読んだくらいだったが、劇場で購入したパンレットが彼のこれまでの仕事を紹介する内容になっているようなので、まずはこのパンフレットに目を通すところから少し勉強してみたいと思う。長文を読んでいただいたみなさま、どうもありがとうございました。
(大野遙)