先日(2015.1.24)、板橋のサブテレニアンという小劇場で開かれていた「安部公房ワークショップ」なるものに参加してきました。安部公房に関するいくつかのプログラムが企画されているという非常にマニアックな内容の演劇ワークショップで、最近「傍白」のページを全然更新していなかったし、ちょうどいい機会だ!と、レポートがてら、少し考えたことでも書こうかと思います。マニアックで長文なので、お暇でしたら読んでください。
安部公房は、小説家として世界的に有名ですが、戯曲も書いているし、安部公房スタジオなる劇団も作っているしで、わりと演劇どっぷりの人です(ちなみに安部公房スタジオの俳優陣は田中邦衛や仲代達矢など、そうそうたる顔ぶれ)。僕は彼の小説も戯曲も好きなんですが、今回私が参加したのは、清末浩平さんという方が講師を勤めたプログラムで、今まで謎のベールに包まれていた安部公房スタジオでの俳優訓練システム「安部システム」を文献から再現、試しにやってみよう!というかなり意欲的・実験的な内容のプログラムでした。マニアック過ぎてヨダレ出ますね。
安部好き証拠写真。マニアの方には「この程度か!」とお叱りを受けそうですが。。
プログラムは安部システムの概要の説明から入り、4つのワークを体験的に紹介するという流れでした。どのワークも、理知的なような直感的なような、安部公房らしいなんとも言えないトリッキーな手法が用いられています。ただ、狙いはわりと王道な、他の俳優訓練システムでも見られるようなもので、頭のいい変人が一生懸命演劇のことを考えて作った感じが漂っていました。いろいろ面白かったんですが、以下、【写真のぞき】というワークについて書きます。
俳優が二人、舞台に上がります。一人の俳優に、写真が一枚入った小箱が渡されます。小箱を持った俳優は、箱の中を覗き、その写真を観察します。観察が終わったら、顔を上げ、もう一人の俳優にその写真について説明します。説明が終わったら、聞き役に回った俳優がどんなイメージを結んだか、実際の写真と比べて検討します。
このワークは「観察力」と「表現力」の訓練として作られたものだそうです。話し手は写真を分析し(観察)、言葉にしなければいけません(表現)。しかもその際、聞き手が頭の中にイメージを再構成できるようなやり方で分析しなければならない訳です。これは難しい。
安部公房は、もともと「観察」と「表現」の一致ということを持論にしていたとのこと。いかに的確に観察し、いかに正確に表現するか。的確さ、正確さを追求するその姿勢、医学部出身という安部の出自も影響しているのでしょうか。演劇は再現(=ミメーシス)であるというアリストテレスの哲学にも通ずるかもしれません。
ただ、このワーク、いろいろ疑問も湧いてきます。
―イメージって本当に伝えられるの?
―イメージって伝えるべきなの?
―伝えるべきイメージがあるなら、そのイメージって一体どんなものなの?
これ結構難しいなと思いました。
ジェローム・ブルーナーという心理学者がいるのですが、彼は「語ること」について、面白いことを言っています(「可能世界の心理」や「意味の復権」という本がとても面白いです)。曰く、人が何かを語るとき、そこには対象と、その対象に対する意図がある、と言うのです。「あの人は美人だ」と語るとき、そこには「あの人」という対象が表現されると同時に、「あの人って美人だなぁ」という話者の意図が表現されるということですね。
さらにブルーナーは、ある人間が沈黙を破り、何かについて「語る」ということそのものが、意図のある行為であって、つまり、意図の表明こそが表現の本質であるとも言っています。「あの人は美人だ」と言わなくてもいいのにわざわざ話すこと、その行為そのものが意図の表明であり、「表現」なんですね。
さて、対象に対する意図の表明が表現の本質であると考えるならば、【写真のぞき】のワークで、我々が求められているのは一体何なのか。それは対象である写真に対する話者の意図なのかも知れません。美女の写真が入っていたとして、「綺麗な女性の写真です」と語ったとき、重要なのは写真そのものを正確に伝えることではなく、写真の女性を見て「美しい」と感じた話者の意図、もしかしたら憧れや欲望と名付けられるその感情を伝えることなのではないでしょうか。
安部公房は安部システムを考案した際、「観察」と「表現」の一致について、最初は一種の理想論として考えていたそうです。一致することはないだろうが、俳優はその困難に気づいていることが大事だ、そう考えていたようです。ところが、実際に田中邦衛が【写真のぞき】で表現する姿を見て、現実に「観察」と「表現」が一致することは可能であり、そうあるべきなのだと、考えを改めたのだとか。
田中邦衛がした表現は一体どんな表現だったんでしょうね。小箱の中の美女の特徴が手に取るように分かるものだったのか。それとも、美女に対する田中の熱い想いが痛いほど伝わってくるものだったのか。それは今となっては分かりません。ですが、安部の語るそうしたエピソード、表現を聞いていると、安部公房スタジオの豊かな時間に対する、安部の想いも伝わってくるように思います。
(大野)