(2020.2.14追記)
昨年の8月に上演された谷賢一さん作の『福島三部作』ですが、その後見事に第23回鶴屋南北戯曲賞、そして第64回岸田國士戯曲賞を受賞しました。
※鶴屋南北戯曲賞は第2部『1986年:メビウスの輪』が受賞。岸田國士戯曲賞は、 第1部『1961年:夜に昇る太陽』第2部『1986年:メビウスの輪』第3部『2011年:語られたがる言葉たち』」揃いでの受賞。
昨年の観劇直後に書いた以下の文章の中で、私は「こうした表現が評価されないような時代にしてはならない」と書きましたが、この作品がしっかりと社会に評価されたことを本当に嬉しく思っています。
福島の生活と政治は決して他人事ではなく、我々が知って考えていくべき事柄だということを、『福島三部作』は伝えてくれます。表現者としての谷さんの誠意に対して社会が感謝の意を表したことに、私は温かい気持ちになりました。
谷賢一さん、受賞おめでとうございます!
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谷賢一『戯曲 福島三部作』(而立書房)
先週末、東京芸術劇場で上演中の話題作『福島3部作』を観てきた。三作通しでの観劇だ。上演劇団DULL-COLORED POPは、決して規模の大きな劇団ではない。短編でもない三本の芝居を同時に上演するなど、正気の沙汰ではないだろう。だが、この芝居、三作揃えて上演すること、観劇の機会があることに、非常に大きな意味があったことは間違いない。これは観客にとってだけではなく、きっと上演する側にとっても同じだったのではないだろうか。
「福島3部作」は、福島第一原発の事故を受け、作・演出を務める主宰・谷賢一が、3年に渡る取材を経て書き上げた大作である。あらすじや、谷と原発との縁については、谷自身の文章(http://www.dcpop.org/vol20/)に譲るとして、私はこの芝居の肝は、原発誘致を決定する双葉町の希望を描いた第一部『1961年:夜に昇る太陽』、チェルノブイリ原発事故に揺れる双葉町の矛盾を描いた第二部『1986年:メビウスの輪』、そして震災と原発事故に引き裂かれる現在の日本の姿を描いた第三部『2011年:語られたがる言葉たち』と、これら三部作を通して福島と日本の”歴史”を描いたことにあると考えている。
この三部作、それぞれバラバラに独立した作品になっており、そのスタイルも三者三様、違ったものになっている。少し話は逸れるが、私はもしこの三部作から一作品だけを選んで、再度観劇するとしたら、間違いなく第二部を選ぶだろう。第二部は、私見だが、演劇表現として最も完成度の高いものであった。元は原発反対派であった双葉町町長が、福島の現実と政治、そしてチェルノブイリの事故の中で、原発容認に追い込まれていく、その葛藤が見事に演劇的表現へと昇華されていた。その表現には谷の強い覚悟が感じられ、「日本にもこれだけの演劇があるんだぞ!」と海外の方達に自慢したくなる、そんな強さのある作品だった。
だが、同じく一作品だけを選んで、多くの人に観てもらうとするならば、私は第二部を選ばず、第三部を選ぶ。それは、この作品が現在進行形の葛藤、我々一人一人が考えていくべき課題を扱った作品であり、更には、絶望に立ち向かう人々に寄り添い、エールを送る作品だからだ。これこそ今の日本に必要とされている表現、営みであり、最も価値ある仕事だろうと感じる。
強度のある表現を持つ第二部と、クリティカルな現代性を持つ第三部。では、第一部は?私は、しかしこの第一部が、実はこれら三部作の中で最も重要な役割、福島と我々をつなぐための”要”とも言える作品だったのではないかと考えている。
第一部は、三部作の中で唯一、“原発のない”福島を描いている。第一部が、福島に向かう汽車の中で幕を開けること、全編を通して風景の描写が多いことは、決して偶然ではないだろう。谷は、我々観客を“原発のない”福島に連れていく必要があったのだ。原発のない土地に暮らす人々が、何に苦しみ、葛藤しながらも、なぜ原発に希望を託すことになったか。その過程を観客に追体験させる必要があったのだ。
第一部を観ていると、多くの観客は辛い気持ちになると思う。2019年に生きる我々は、あの事故を知っているからだ。過去の人間が未来を語るその語りの、その輝きが増せば増すほど、事故の暗い影が大きく大きく伸びていく。「過去は決して変えられない」というこの悲しい現実は、第二部、第三部も含めたこの三部作の彩りの基調をなしていると言えるかもしれない。
しかし第一部は、決して過去の過ちに対するやるせなさを描くためだけの作品ではなかった。第一部を観た我々は、結果として大きな過ちを犯してしまった過去を、振り返って考えることはできても、決して非難することはできない。それは、未来へと希望を託す人々の想いに何ら罪がなく、そしてその姿は、現在の我々と何ら変わらないということを体験しているからだ。我々はこの先もまだ過ちを犯してしまうのかもしれないが、人が人を想う気持ちがあること、人々が”はた−らく”姿の輝きは、やはり美しい。谷は、暗い夜の中にこそ輝く太陽が昇るということを、悲しくも、優しい目で見守っている。
1961年、1986年、2011年から現在へと続く、福島と日本の時の流れ、風景と人々の葛藤(この三作は見事に、三兄弟それぞれの葛藤にそのテーマを託されている)、つまりは”歴史”を描いたことが、この『福島三部作』の最大の価値だと私が考えるのは、上記のような理由からである。
谷は、大変な時間と労力をかけて、福島の人々の声を聞こうとしている。第三部の劇中、「真面目な報道と、資本主義との相性は悪い」「真面目な報道と、民主主義との相性も悪い」というような台詞があったが、残念ながら、このことは現状事実だと言えるだろう。谷が聞きとり、我々に伝えた「言葉たち」は、マスメディアから聞くことは非常に難しい種類のものだ。だが、資本主義はともかくとして、民主主義には、まだ希望を託したいという思いもある。今回の三部作、こうした表現が評価されないような時代にしてはならない。三部作揃っての上演は難しい、予定はない、と谷自身が発言しているようだが、この作品は日本でも、そして海外でも、まだまだ上演されるべき作品であると思う。採算の取れない、何の見返りもない、“正気の沙汰でない”演劇を、ただただ愛と使命感から行う者たちに対して、社会は何か返礼しなければならないのではないかと思う。私もこれから考えていくことが必要だと思っている。
ちなみに上演はまだ終わっていない。東京芸術劇場では28日(水)まで。その後、大阪公演と、福島への凱旋第三部公演が残っている。少なくとも東京では、当日券は出ているようだ。観劇をオススメする。(大野)
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