例年ならば『忘本会』で飲んだくれ、そのまま年明けまで惰眠をむさぼる『本読み会』ですが、今年はちょっと違います。暮れも押し迫る12月21日、南町田へ出張『本読み会』をしてまいりました。これが仕事納め、読み納めといったところでしょうか。
実はこの出張『本読み会』、昨年も呼んでいただいたのです。南町田の福祉ネットワークからのご依頼で、声に出して戯曲を読んでみるという企画。今年は「ちょこっとの時間(やってみよう)戯曲を読むPart2」と題して、菊池寛の『父帰る』を読んでみることにしました。ちなみに去年は岸田國士の『紙風船』。短くてもいいから最初から最後まで通して戯曲を読むのがミソなので、2時間ほどかけて日本を代表する短編戯曲に挑みました。
とはいっても、いつもの『本読み会』とは違って、初めて戯曲を声に出して読む方も多いので、そもそも戯曲とはなんぞや?というところから。ト書きがあって、役名があって、台詞があって・・・というあたりはいいのですが、問題はそこから先。小説でもなくエッセイでもなく、戯曲でしか描けないものはなんぞや?私たちもここのところは言葉を選びながら紹介をします。今回は、「戯曲はある意志を持った人間の行動の連なりでできている」という言い方をしました。アリストテレスもスタニスラフスキイもだいたい似たようなことを言っていますが、やはりそうなのです。叙述ではなく行動によって描く。そして声に出すことによってイメージが「立ち上がってくる」。言い古された戯曲の魅力ですが、私たちはこの魅力に憑りつかれて活動を続けているのかもしれません。
『父帰る』は、つつましく暮らす一人親の家庭に突如父親が帰ってくる話です。しかも20年ぶりに。「よろしく頼むぜ」という父に、家族たちは当然ながら困惑を隠せません。そう簡単に迎え入れるわけにはいかない。参加者の方からも、「どの面下げて」「考えられない」と、次々に非難の声が上がります・・・が、このへんが菊池寛の上手いところ。家族―母おたね、長男賢一郎、次男新二郎、長女おたかの間に絶妙な年齢差を設け、20年前の記憶に温度差を作り出しています。最も記憶が鮮明な長男は断固として拒みますが、当時まだ3歳だか4歳だかの次男は、「父でなく敵だ!」と言われてもいまひとつピンときません。長女に至っては生まれているかどうかもあやしいところ。さらにこの長女、劇の冒頭で嫁入りの話が出ています。娘が離れていくことを感じている母親としては、夫が帰ってくるのはむしろ心強いことでもある・・・。優れた戯曲は、台詞や筋はもちろん、「設定」が何より卓越しているのです。
こうした戯曲の構造に触れると、参加者の方にもいろいろな読み方が生まれます。不満を露にする長男よりも、母親へ共感したり、間を取り持つ次男の行動を首肯したり。さすがにさすがに父親に同情する声はあんまりなかったですが・・・。ともかく、このあたりは読み手の人生経験によるところが大きい。高校生や大学生が読んでも、なかなかこうした「読み」にはなりません。ともかく、戯曲の内部に踏み込んでいるからこそ、登場人物たちに対して怒ったりイライラしたり、様々なリアクションが生まれます。すると、いつのまにか戯曲に「声が乗って」くるのです。それは、戯曲の中で与えられた役割を果たすということ。自らが戯曲の中の役になることに他なりません。
最後は予定外の展開で、大野、松山を交えて参加者の方と読んでみるという流れに。お手本・・・になったかどうか分かりませんが、こうして参加者の方と共に声を合わせるのは何よりの交流でした。いつもとは進め方が違ったものの、さしずめ他流試合をやってきたようなものでしょうか。南町田のみなさま、今年もお呼びいただきありがとうございました。少しでも戯曲の魅力が伝わったならば、戯曲親善大使『本読み会』は望外の喜びです。
これにて今年の『本読み会』は本当におしまいです。また来年!
(松山)