「災害レベルの暑さ」と叫ばれていたのが嘘のように、ぐっと冷え込む昨今です。今年最後の『本読み会』は、あの暑い夏の終わりにこの世を去った劇作家、ニール・サイモンの追悼企画として『ヨンカーズ物語』を手に取りました。
舞台は1942年、ニューヨーク州ヨンカーズ市。ドイツユダヤ系アメリカ人の家族をめぐる物語です。妻に先立たれたエディは二人の息子、ジェイとアーティを母親に預け、自らは軍需に沸くアメリカ南部を回って借金返済の旅に出ます。ところが、劇中で「おばあさん」と表記されるこの母親は異常に厳しく家を支配し、子どもたちは抑圧された生活を強いられます。この家に出入りするのは、知的な遅れを抱える叔母ベラ、怪しげな稼業に手を染めるギャングの伯父ルイ、あるいは母親による厳しい養育によって発語に問題をかかえることとなった伯母ガートなど。戦時中、父親と離れざるをえない子どもたちが、問題を抱えた大人たちの間で必死に生き抜く姿が描かれます。
と書くと深刻な物語のように聞こえますが、そこは喜劇の帝王ニール・サイモン。これは超一級の喜劇です。ひとつひとつの対話が機知に富み、観客を5分と飽きさせることがない。イメージ豊かな台詞たちは、この家をつなぐ見えない絆を徐々に紡ぎだしていきます。しかも声に出して実感するのは、酒井洋子先生の翻訳が卓抜しているということ。日本語で読む際に余計な「てにをは」を入れず、非常に軽快なテンポを保ったまま芝居が進行していきます。翻訳劇でこんなにスムーズな台詞運びはなかなか体験できるものではありません。
抑圧された環境下で子どもたちが必死に捻り出す知恵や勇気は、生きる力、生きる喜びそのものであり、ニール・サイモンはそれらを惜しげもなく讃えているかのようです。喜劇って、元来そういうものなんじゃないかと思います。喜劇の本質は笑いではなく、人間そのものを讃えることなのです。頑迷なおばあさんや障害を抱えるベラ叔母さん、そして父のエディや子どもたちも、みな不完全な人間です。彼ら彼女らの人生には何かが足りない。しかし、その足りない部分を埋め合わせて幸せになるのではなく、何かを求めて右往左往する人間たちをそのまま認める懐の深さを『ヨンカーズ物語』は持っています。古代ギリシャ喜劇の時代から、大食漢は豊穣の象徴、好色は生命繁殖の象徴でした。この戯曲は一見家庭劇でありながら、その実はとてつもないスケールの人間讃歌なのではないでしょうか。
と、興奮冷めやらぬ調子で読み終えた『本読み会』一行、時間ギリギリであわてて会場をあとにすると、「忘年会」ならぬ『忘本会』へと歩を進めました。これ、毎年やってるんです。いつも本の話ばかりしているから、年末くらいは本のことは忘れてお酒を飲みましょうという企画。神田川ほとりのイルミネーションを横目に見ながら、お魚のおいしい居酒屋でしっぽりと大人の忘年会です。
『忘本会』では、『本読み会』これまでの活動をまとめた機関紙、人呼んで「『本読み会』新聞リーダーズ」を配布しました(大野氏はこれの編集に当日朝6時までかかったそうです・・・)。これによると、『本読み会』がこれまで取り上げた作家は56人、作品数は89にものぼるとのこと。いつのまにそんなに読んだかと気が遠くなりますが、ひとつひとつの作品を振り返ってみると、驚くほど鮮明に覚えているから不思議です。戯曲の中身を暗記しているわけではなく、「あの作品のときは、どこどこの会場で、久しぶりに○○さんが参加してて、読みながらこんな話をして、たしか帰りに電車が止まってて・・・」と、体験とともに戯曲を覚えているんですね。やっぱり戯曲は知識でなく体験として感じ取るものなのかもしれません。
(『本読み会』新聞・リーダーズ2018)
そして、本を忘れようと言いつつ、酒の肴にビブリオバトル(イチ押しの本を紹介し合い、チャンピオンを決定するバトル)にいそしみつつ宴は佳境をむかえました。SF小説、警察小説、詩集、漫画、演劇論、アレクサンダー・テクニークなどなど、多岐に渡る分野の本の話は聞いているだけで興味深い。あえて誰も戯曲は選ばないところがせめてもの『忘本会』だったのでしょうか。まあ、『忘本会』で本の話ばかりしているのも年末の風物詩なのですが・・・。
というわけで、年末のお忙しい中『本読み会』にご参加いただきありがとうございました。来年もまたみなさまの声を借りて戯曲を読んで・・・と思いきや、今年は番外編がもう一本あります!そのレポートはもうちょっと待ってくださいね。
(松山)