『本読み会』前夜、私は謎の痛みに襲われて目が覚めました。右肩が痛い。
甲子園真っ盛りとはいえ、私はまだ一度も登板していないし、そういえばもう36歳なので甲子園に出場もしていません。
汗びっしょりかいて起き上がろうとすると、半身が動かないのです。どうも右肩を誰かに押さえつけられたように重く、身体を起こすことができません。
隣で妻と娘は静かに寝息を立てています。
結局そのまま意識を失うように眠りにつき、「いつまで寝てんの!」という妻の罵声で目を覚ましたのが明朝。右肩は、まだ重い。
おいおい、今日はこれから『四谷怪談』を読むんだぜ…。
『東海道四谷怪談』は、江戸時代後期に書かれた怪談狂言。『仮名手本忠臣蔵』のスピンオフ作品として、実在する人物や事件を元に、鶴屋南北がフィクションの腕を振るってこしらえた傑作です。7月になると、涼を取ろうということであちこちの芝居小屋にかかるのは、今昔変わりません。
私が『四谷怪談』を最後に観たのは、学生の引率で歌舞伎座へ出かけた時のことです。リニューアルオープンして少し経っていたから、3、4年前だったでしょうか。学生の多くは歌舞伎を観るのが初めてで、「小悪魔ageha」(ギャル系ファッション誌)みたいな浴衣を着て、観光客のようにわらわらと歌舞伎座へ集合してきました。
歌舞伎座に効いているクーラーのせいもあったのでしょうが、薄暗い舞台で陰惨な芝居が進んでいくのは、やはり肝が冷えるような心持ち。かと思えばバカでかい火の玉やネズミが這い回るようなスペクタクルもあり、学生ともども大変楽しい観劇をいたしました。そういえば帰り際に、「先生、お皿を数えるシーンはなかったですね?」と言っていたやつがいたな・・・。
ということで、映画や舞台で見たことはあるのですが、声に出して読むのは、もちろん今回が初めて。「『四谷怪談』選んだはいいけど、そもそも読めるのか・・・?」という開催前の心配は、参加した皆さんのおかげで全く杞憂に終わりました。とにかくリズムがいいんです。ルビの振ってある難関漢字に苦戦しつつも声を出していくと、戯曲に内蔵されている音感が読み手を導いてくれる感じ。普段は気にも留めないけれど、実は身体の奥底に眠っている七五調のリズムが台詞によって呼び覚まされるとでもいいましょうか。
だから、これは運動なのです。『四谷怪談』を読むことは、まぎれもない運動だったのです。表面的に身体は動いていないけれど、身体の内側は絶えず動き、震え、リズムを刻んでいる。このリズムが読み手の中で響き、共演者と響き、さらには観客と共鳴する、というところまで到達するのが歌舞伎の醍醐味なのでしょうか。台詞の調子に相まって、読み手もどんどん劇中の役割にのめり込んでいきます。こうなってくると『本読み会』はおもしろい。
語弊を恐れず言えば、『四谷怪談』はコメディすれすれの作品ですね。いや、読み方やストーリーが面白おかしかったという意味ではなく。優れたホラー作品は、限りなくコメディへ近づいていき、逆もまた然りなのです。民谷伊右衛門は私欲を満たすために妻と復縁し、やっぱり嫌だからと騙し、殺し、「やっぱり金持ちで若い娘がいい」と後妻を娶る。とんでもない奴です。ところが、欲望のままに悪事を重ねる伊右衛門が足をすくわれるのは、実はお岩さんの呪いではありません。他ならぬ自分自身の後ろめたさや罪悪感。伊右衛門の中に撒かれた小さな怖れの種が、芽を出し、花を咲かせ、彼を飲み込んでしまうのです。
しかし、観客は「それでも、手のつけられない悪者であってくれ!イエモン!」と拍手喝采しながら見るのです。私欲のために動いていた伊右衛門は、いつしか自分の奴隷になり、観客のマリオネットになり、踊り狂った挙句、しまいには糸を切られて果ててしまいます。こうなると、悲劇というよりピエロですね。
自分の中に生まれ、自分で育てた恐怖ほど怖いものはありません。
恐怖は、あなたの中に生まれ、あなた自身が育てるものなのだから。
あれ、また肩が痛い・・・気がする。
(松山)