第60回『本読み会・シェイクスピア』レポート

shakespeare-event-reportシェイクスピア没後400年記念、『本読み会/ハムレット』にご参加いただいたみなさん、どうもありがとうございました。今回は1日目に『ハムレット』を読んで、2日目にナショナル・シアター・ライブで観るという異例の2日連続開催。今や頭の中ではシェイクスピアの台詞がテンペストのように渦を巻いていることでしょう。



「久しぶりに読書でもするか」といって、本棚から『ハムレット』を取り出すこともなかなかありませんので、私自身、『ハムレット』をちゃんと通して読んだのは何年ぶりのことか…下手をすると学生時代に上演して以来かもしれません。こういう機会でもないと読まない本を読むのも、『本読み会』の味。

数あるシェイクスピア作品の中でも、『ハムレット』ほど読み手によって異なるイメージを与える戯曲はありません。「ハムレットくらい知ってらい」と油断して読み始めると、知っているはずの筋書きや台詞が異なる光を纏って輝いてきます。それはまさに、読む者の感情が、まさに鏡のように戯曲に照らされて自分に跳ね返ってくるようです。これはどこか抜けていて、不完全で不安定な物語。ほかならぬ読み手自身が、この戯曲に張り巡らされた隙間を埋めるしかありません。だから『ハムレット』は、読み手の数だけ異なるハムレット像を生み出すのではないでしょうか。

と、なぜかここでちょっと野球の話を。先日、メジャーリーグでこんな新ルールが提案がされたとニュースがありました。

「敬遠はボールを4球投げなくても、球審に敬遠の意思を示せば打者を歩かせられる。」

作戦として、わざとフォアボールにすることはあります。このとき、形式的にボールを4球投げなくてはいけないのですが、これは時間の無駄だから、投げなくてもいいことにしましょうという提案。昨今、安全と試合のスピードアップを図るために様々なルール改定がされていますが、ついにここまできました。「やりすぎじゃないのか?」と思っていたところに、

「それ(4球投げること)も野球の一部であり、変えるべきではない。なぜなら敬遠で苦しむ投手もいるから。もしそうなれば、本塁打を打ったとしても、ベースを一周しなくていいことになってしまう。野球を変えてしまうのではと心配です。」

と懸念を示したのは、さすがのイチロー。いいことを言う。

そうなのです。「どうせフォアボールなんだから、やらなくてもいいじゃない。」という考え方を突き詰めて行くと、たとえば8回の表で11-0で負けているとき、「どうせ負けなんだから、途中でやめたっていいじゃない。」ということになる。スピードアップを図ろうとする意思が暴走して、本質を歪めてしまうことになるのです。

野球の話ばかりで長くなってしまいましたが、『ハムレット』を読んで、観たとき、私の頭の中にはこのルール改定のニュースがフラッシュバックしていました。

ハムレットは迷いに迷って復讐を遂げた挙句、最後には無念の死を遂げるわけですが、重要なのはその結果ではありません。ハムレットはその過程で、亡霊と出会い、王を計り、母を苛み、恋人を失い、友と殺し合いをします。私たちはどこか、ラストに繋がる一筋の道が物語を貫いているような気になりますが、『ハムレット』には過程があって結果があるのではなく、むしろ過程そのものが物語の実なのです。ベネディクト・カンバーバッチ演じるハムレットも、万華鏡のように、姿を変えながら異なる光を放ち続ける主人公を、非常に繊細に描いていました。

演劇は、「とてもよくできた八百長試合」のようなもの。「ハムレットはどうせ死ぬんだから」といって、ベンチに眠らせておくわけにはいきません。わざとフォアボールで歩かせるときも、そのときの打者の見逃し方、次打者の準備、そして観客席から怒号のように響き渡るブーイングも、どこが見所になるかは観る者次第。その全てが野球であり、演劇なのです。
(松山)

第60回『本読み会・シェイクスピア』レポート」への2件のフィードバック

  1. 藤井暁子

    初参加楽しかったです。有難うございました。レポートも楽しく読ませていただきました。私も野球ファンで敬遠のニュースを読み同じことを考えました。次回も楽しみにしています。

    返信

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