・サミュエル・ベケット(1906〜1989)
「不条理演劇」なんて言葉が当たり前のように使われるようになったのは、この人が世に出たからでしょう。サミュエル・ベケット。
意味の分からない戯曲を書かせたら、彼の右に出るものなどいません。
処女戯曲にして代表作『ゴドーを待ちながら』はフランスで出版されましたが、ベケットはもともとアイルランドで生まれました。アイルランド一の名門校トリニティカレッジで学んだ後、フランスへ移住して作家活動を開始します。アイルランド出身→ヨーロッパへ移住して作家活動というパターンは案外多いのです。バーナード・ショウ、ジェイムズ・ジョイス、オスカー・ワイルド・・・などなど。
私も一度だけアイルランドへ行ったことがありますが、イギリスよりも雲がうんと分厚くて、海もなんだか鈍い光を放っているようでした。日本でいうと東北みたいな雰囲気。やっぱり文学はこういうところから生まれるもんだな、ハワイで俳句は生まれないな、と妙に納得したのを覚えています。
・ベケットの作品とその時代
さて、『ゴドー』がセンセーションを巻き起こしたのがちょうど1950年。その後も彼は『勝負の終わり』(1957年)、『しあわせな日々』(1961年)、『芝居』(1963年)と次々に大きな仕事を続け、まさに50〜60年代を代表する劇作家となりました。この時代を、冷戦と原子力抜きに語ることはできません。第二次大戦が終わるや否や、アメリカとソ連の二大国は、核開発を切り札にした死のカードゲームを始めます。それは広島に原爆が落ちて間もないとき。もはや人の手に負えない、見えない大きな力が私たちの人生に影を落としている。そこにあるのはもはや、個人レベルで納得できる因果関係などではありませんでした。この意味において、ベケットの戯曲は非常に「リアル」な作品なのです。
時間も場所も示されていないベケットの戯曲ですが、登場人物たちはどこか、大惨事を経験した後で荒廃した世界に取り残されたかのようです。今日と同じ明日が来るとは限らない。ベケット戯曲に漂う言い知れぬ不気味さは、こういった時代の空気を吸ってのことなのかもしれません。
そして現在、ベケットの戯曲が再びリアルな光を帯びています。戯曲が不条理かリアルかを決めるのは、作者ではありません。それは時代であり、時代を生きる観客によってのことなのです。
(松山)