田舎道。一本の木。夕暮れ。
つづいてエストラゴンが靴を脱ぎ始める。
力尽きてやめ、そしてまた始める。同じことの繰り返し。
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』。世界一有名なこの戯曲は、こんなとりとめもないシーンから始まります。
そして、戯曲のすべてがここに詰まっているといっても過言ではありません。
「どう読めばいいのか?」と戸惑いつつページを読み進めていくものの、読んでも読んでも、ヒントはまったく見つかりません。ストーリーは線ではなく螺旋を描いて、同じところを何度も何度も通るような感覚。しかも通るたびに、前に通ったことを忘れているのが困りもの。だいたい言っていることが本当かどうかすら明確ではありません。私たちに残されているのは、「とにかく書かれている台詞を読む」ということだけ。「台詞を読んでいる」という状況だけ。『ゴドー』が描いているのは、行動ではなく状況なのかもしれません。
1957年、カリフォルニア州のサン・クエンティン刑務所で『ゴドーを待ちながら』が上演されたことがあります。サン・クエンティンといえば刑務所の中でもとりわけ悪名高い囚人たちが収監される悪の巣窟。しかし、彼らは他の誰よりも深く知っていました。「待つ」ということが一体どういうことなのかを。
ある囚人は言いました。「ゴドーは社会だ。」べつの一人は「奴は外部だ」と言いました。刑務所の中で何かを待ち続ける彼らにとって、『ゴドーを待ちながら』は難解な戯曲でも何でもありませんでした。そして、ゴドーがやってきたとしても、がっかりさせられるだけだということも知っていたのです。彼らにとって、これは不条理戯曲ではなく、限りなくリアルな芝居。だとすれば、「条理」とはそもそもどこの誰にとってのものなのか?そんな疑問がわいてくる逸話です。
田舎道。一本の木。夕暮れ。
ここに詰まっているのは戯曲のすべてではありません。
世界のすべてなのです。
(松山)