「ガリレオ」というドラマが放送されていますね。皆さん、見てますか?
東野圭吾のベストセラー小説が原作で、福山雅治演じる天才物理学者・湯川学が、科学的なアプローチで、さながら探偵のように様々な事件のトリックを解決していくというお話です。
僕は数年前に公開された映画『容疑者ⅹの献身』を見て、「実に面白い。」と思った口でして、今回のドラマも、時間が合えば見るようにしている(←録画機が無いので、家にいない時は見てない)んですが、今回のドラマ、初回がなかなか面白かったんです。
とある新興宗教の幹部達が、霊能力に見せかけたあるトリックを使って殺人事件を起こす。
殺人であるのはどうも間違いないんだが、「霊能力で殺した」などという非科学的な説明では逮捕する訳にはいかない。
しかしそこで湯川先生登場。霊能力という非科学的で不可解な事態に対し、「現象には必ず理由がある」とセリフをバシッと決めながら、物理の知識でトリックを暴く、という筋でした。
この初回、何が面白かったかって、事件が解決した後のエピローグが面白かった。
大沢たかお演じる新興宗教の教祖(この教祖は幹部達に利用されていて、自分の霊能力がトリックだったことを知らなかったのです)が、逮捕後の拘置所の中というトリックは使えない場所で、その霊能力を使って同房者を癒すんですね。視聴者は「えっ!?この人、本当に霊能力を持ってたの?」みたいに驚いてドラマが終わる、というような感じです。
10年ほど前にあった仲間由紀恵と阿部寛主演のドラマ「TRICK」も、少なくともファーストシーズンは、そういった構成、事件解決後に説明しきれないモヤモヤしたものが残る構成だったのを思い出したんですが、ここにはただのどんでん返しに終わらない面白さがあるように、僕には感じられました。
つまりそこには、「科学的だとか、合理的だとか、そういう物差しってホントに万能なのかい?」という問いかけがあるように思うんですね。言い換えるならば、「湯川先生、本当に、現象には必ず理由があるんですかね・・・?」というイジワルな問いかけです。
そもそも、いわゆる「探偵モノ」というジャンルは、19世紀半ばに書かれたエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」から始まると言われているんですが、実はこの「探偵」という存在には、産業革命を迎え、近代合理主義が徹底された当時の世相、信念を強く反映しています。
つまり、一見、非科学的、非合理的、不可解に見える現象も、必ずや人間の理性が解き明かすことが出来るという信念です。
19世紀の人々は、それまで世界を統一していた「神の存在」という信念から脱却し、「科学」もしくは「理性」という新しい神を崇拝するようになりました。言わば「神中心」の世界から「人間中心」の世界へと移行したわけです。
その象徴的存在、理性のヒーローとなったのが、殺人という(理性のある人間には到底理解できない!)非合理な現象、闇に光をあてる「探偵」だったのです。
「モルグ街の殺人」から170年経った現在も、相変わらず科学は正義であり、探偵はヒーローであり続けているのですね。
話を元に戻して、ドラマ「ガリレオ」の初回のエピローグですが、そこでなされた「合理主義って本当に万能なの?」という問いかけは、そうした近代合理主義に対するカウンターとして、大事な意味を持っているのではないかと私は思います。
本当に、人間は理性で理解できる存在なのか。
本当に、人間は合理的に行動する生き物なのか。
答えは皆さん知っていますね。自分の胸に手を当てて考えればすぐ分かります。
「人間には、人間の存在や感情には、どうにもよく分からない部分があるようだぞ。」
そう思いませんか?
そうしたことを知ってるからこそ、我々は一方では科学のヒーローである探偵を応援しながら、一方ではどうにも分からない人間の「存在」や「感情」を理解したくて、殺人犯の方に共感してしまったりするのではないでしょうか。
ドストエフスキーからシェイクスピア、手塚治にスタジオジブリまで、どんな時代のものでも、私たちが直感的に「面白い!!」と感じるドラマというものには、いつもこの「非合理な存在としての人間」が描かれているように思います。
「現象には必ず理由がある」そう語る探偵ガリレオが、少し自分に疑問を感じてしまう。自信が揺らいでしまう。
そんな瞬間を、ドラマは描くべきなのではないかな、と私は思うのです。
(大野)