公演まであと22日。
稽古場日誌です。
今日は戯曲の解釈と身体についてお話したいと思います。
実は今回の公演、企画が立ちあがってからもう2年近くが経ち、戯曲が決まってからでも1年半以上過ぎています・・・!(書いてて自分がびっくりしてます)
ところがこの「建築家とアッシリアの皇帝」という戯曲、何度も何度も読み返し、意見を交わしてきたにも関わらず、未だにどんな戯曲なのかつかみきれていません。
・・・なんて言うと、おいおいそれで大丈夫なの?あと22日だよ?と不安に思われそうですが、事実なんだからしょうがない。本当に分からない事だらけなんです。
この戯曲はいわゆる「不条理劇」のジャンルに入る作品なんですが、さすが「よっ、不条理劇!」なんて言われるだけあって、展開が急に変わるし、意味の掴めないセリフはバンバン出てくるし、ホントなのか嘘なのか分からないことばっか言うし、もうとにかくカオス!って感じの戯曲でして、私(大野)の明晰な頭脳をもってしても、何が何やらさっぱり分からない。
例えばこうです。
建築家「それなら哲学を教えてくれないか?」
皇帝「あぁ!哲学、哲学!(四つん這いになって)私は聖なる象だ!~(後略)」
いきなり象さんになったりするんですよ。 しかも聖なる。
ただ、ちょっと話はそれますが、実は私、今まで不条理劇と呼ばれる作品を読んでも「あー不条理だなー」と思ったことは少なくて(まあちょっとはあるけど)、
「いやー、わりとリアリズムでしょ。」とか
「実は実話なんじゃないの?」
とか結構思うんですけど、今回の戯曲も実はそう感じています。
論理的に考えたらありえないような展開なんでしょうが、でも現実は決して論理的ではないですし、それを言ったら、展開が急に変わったり、意味の掴めないセリフがバンバン出てきたり、ホントなのか嘘なのか分からないことばっか言ったり、もうとにかくカオス!って感じなのは、これは日々の生活も同じだと思いませんか?
そういった視点で眺めてみると、やはり「建築家とアッシリアの皇帝」も、実は実話なんじゃない?と思えてくるのです。
いやいや確かに「アラバール、お前、象になったことあるな。しかも聖なるヤツ。これ実話だろ。」 とは思いませんがね、でも例えば、誰か大切な人と二人でいて、その人の笑顔を見たくて象さんになってみたり、あるいはその大切な人との別れの際に、かつて笑顔見たさになってみたあの幸せな象さんをもう一度、と考えたりするのは、決して不条理なことではないと思うのです。
さて、こうして「不条理」な戯曲を「実話」に変えていくという、とても難しい作業が始まる訳なんですが、これは先ほども書きました通りいくら論理で考えてても分からないことで、このときその難しい作業を導いてくれるのが身体なんですね。
やり方は簡単で、実際に身体を動かしながら、他人の身体を前にして、セリフを言ってみる。
すると、身体の中で何かが動き、今までただの言葉の羅列だったセリフに流れが生まれ、もしかしたらこんな言葉なんじゃない?という可能性、イメージが閃くんです。(書いてて思いましたが、これが『本読み会』の活動の目的かも知れません。)
「建築家とアッシリアの皇帝」は二人芝居です。
稽古場では二人の俳優がお互いの身体を前にしながら、象さんになったり、鳥と話をしたり、女性になったりしています。
この不条理な劇が、紛れもない実話として皆さんの目に映るよう、我々は必死に稽古をしています。
大野 遙